2012年2月29日水曜日

みことばのプレゼント

日本は雪。しかし、この二羽のひよどり、果敢にも我が庭に姿を見せる。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」昔、よく聞かされた「君の名は」の名台詞である。恐らく振り返りたくない戦時の思い出を封殺したいという国民感情とマッチしてこの台詞は巷に流れ出て行ったのではないかと思う。過去あっての現在だから、忘れ去ろうにも忘れられない。忘れるふりをするだけであると言う悲しさか。

 生きんがために、忘れてしまっていることがたくさんある。しかし人様から受けた恩を忘れる忘恩の罪は犯したくないものである。ふと今朝思い出したのは一人の宣教師から受けた40年以上前の恩義である。当時、私はむち打ち症の後遺症に悩まされていた。牧師夫人の紹介でその知り合いの方からカイロプラクティックの治療を行なっているというカナダの老婦人を紹介された。東京の保谷市にお住まいであった。今となってはその方のお宅にどのようにして出かけて行ったかも記憶が定かではない。ただそのお方のお部屋だけは良く覚えている。

 弟さんとか言う方と一緒に住んでおられ、私が治療に伺ったときは音楽(多分賛美歌だったのだろう)を流しながら弟さんがハミングされる。合間合間に、その婦人と弟さんの間で会話がなされる。こちらは首を初めとしてボキボキ乱暴とも言える治療に息をこらして台の上にただ静かに身を横たえ、委ねるしかなかった。(お二人とも英語しか話されなかった)それまでの安静治療が功を奏しないので、選択した治療だが全く逆療法であった。三四回通ったのだろうか。私は当時足利に住んでいたのでかなりの距離だった。

 そんなある時、台の上に寝かせられながら私は思い切って日頃抱えている問題を彼女にぶっつけ、信仰を持つのにはどうすれば良いのかを聞こうとしたが、もとよりうまく話せない、結局あなたが私に勧めたい聖書のことばは何ですか、と尋ねた。ところが彼女はこの哀れな私に向かって「Nehemiah chapter8 verse10」と甲高い声で宣った。恐らくその節を英語で話してくれたのだが、すぐわからなかった。当時、ネヘミヤ記という書が聖書にあることも知らなかった。恐る恐る日本語の聖書を調べて見ると「主を喜ぶことがあなたがたの力である」とあった。

 その時、それまで主はどういう方か、ほんとうに神は存在するのであろうかとただひたすら論証を求めていたのに、この聖書のことばは有無を言わせず私を神様の前にポンと押し出すみことばとなった。瞬時に了解した。無い物ねだりをしていた自分に気づかされたからである。そうだ、主を喜ぶことが大切なのだ。わかろうと一所懸命お前はしているが、今の知り方で十分だよ、それよりは、お前はわたしを愛することだよ、と主から語られているように感じたからである。優柔不断であった自分が一歩神様の前に自分を差し出すことを始めた記念すべきみことばとなった。

 忘れていることがある。自分は神様の前でごう慢極まりなかった。その私の救いのために多くの方が祈ってくださった。今改めてお一人お一人に感謝したい気持ちである。その後どうされたかも知る由もない、その老婦人はベイカーさんと言う方だった。恐らく今頃は天国に行っておられることであろう。天国に行ったらその方にお礼を言いたい。昨日も保谷市とは同じ界隈の吉祥寺に出かけた。40年以上前に出会ったベイ カーさん宅の前に立ってみたいと思いはするのだがどのあたりかもわからない。けれども彼女が私にプレゼントしてくれたみことばは永遠に輝いている。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(旧約聖書 詩篇119:105)

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