2012年2月21日火曜日

賢い娘と愚かな娘

 私は主イエス様を信じている。これほど単純な信仰はないのではないだろうか。もちろん最初からそうであったわけではない。人並みに一通りの疑問を持ったし、反撥もあった。しかし、今は己がうちにこのイエス様を信ずることが一点の曇りなき状態であるかどうかを吟味するように変えられつつある。今日の吉祥寺での火曜のベックさんの聖書の学びにおいて、さらにその思いを強くされた。

 今から75年前、1937年、日本軍の侵攻を受けていた中国人キリスト者が、戦争をも主イエス様から受けていて、平安のうちに主だけに喜ばれる生き方をしながら、主イエス様を宣べ伝える生活を続けたその一端を知ることの出来る手紙に接した。先ずはその手紙を写してみたい。(福建省の女性が別の女性に宛てた 手紙の一文の断片ではあるが・・・)

 (節敦が先にやって来て、集会を導きました。)わたしは婦人の出席者たちを、少しばかり助けました。××以外は、すべての人が歓迎してくれました。彼らがどれほど真理を慕い、わたしたちのような人を敬っているかを、わたしは見ました。しかし、わたしは主に、自分が何もできないことを告げました。わたしにできることはただ、わたし自身を主の御手にささげ、主に自分自身を砕いていただくことです。それは、他の人が供給を得るためです。主に感謝します。この働きは主の働きであることを、主はわたしに見せてくださいました。成果がある時にも興奮すべきではなく、成果がない時にも意気消沈すべきではありません。人はただ主の命令にしたがって、一歩一歩進んで行くべきです。主に感謝します。主はわたしを導いてくださり、この寄留者の生活を過ごさせてくださいます。どうか主が真にわたしを、彼と共にこの世を旅する者にしてくださいますように。※

 一読、爽やかな印象を抱いた。ここには主だけが満たしてくださる、天の御国を目指す信仰者の姿が彷彿としているからである。ここには戦火の匂いさえ感ぜられない。実際は戦火はもうその衣服に燃え移っているかもしれないというのに。

 この一文は今日のベックさんの学びを聞く前に読んでいたものである。しかし、ベックさんの聖書からの勧め、『用意ができているの』(引用聖句マタイ 25:1〜13)で言わんとされていることは結局同じことではないかとさえ思ったのだ。学びの後、一人の方が証をしてくださった。その方が最後の方で引用してくださった聖書のことばに次のものがあった。

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。(旧約聖書 詩篇73:28)

 その方にとって、自らの意に反して病を得、それがために福音を伝えることがままならぬものとなった時に悩みが生じたが、そのことも自分でどうすることもできるものではない。それよりも、生かされているところで主を今まで以上に近よることのできた幸いを感謝したいという意味のことを言われた。

 聖書中の賢い娘はいつも主を間近に体験していた人であった。それにくらべ愚かな娘は信仰とは言うものの、形だけのうわべだけのものであった。主の日にはそれが明らかにされるとベックさんは言われた。手紙に示されている、つねに主にあって行動している中国の婦人キリスト者はまさしく賢い娘である。

 そう言えば、集会の後、お交わりをいただいた一人の若き女性もまた悩みの中から素直に主イエス様を求めたいという思いに交わりを通して変えられていくことが伝わって来た。主はこの日も必要な訓練と祝福を用意してくださっていた。
(※ウオッチマン・ニー全集第二期第32巻「開かれた門」34頁より引用)

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。(新約聖書 マタ イ25:1〜4)

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