日曜日、久方ぶりに礼拝に出席された方と何年ぶりかでお会いした。集会後のパンとコーヒーの交わりにもその方は残られ、互いにお交わりをした。キリスト者にとってこの交わりは礼拝についで欠かせないものである。パウロはローマの人に向かって、次のように言っている。
「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」(ローマ1:11〜12)
信仰者の交わりには一切上下関係はない。ともに主イエス様を見上げての交わりである。その話題は時勢のこともあり、個人生活の出来事もあり、また信仰上の話題もあり、実に様々な話題がある。それぞれが自由に示されたままお互いに思うところを交換し合う場である。
日曜日、その方は私に、聖書でよく言う、「目に見えない」ということばがありますが、あれはどういう意味ですかね、と問われた。お聞きするうちに、その方のうちにご自身が理工学部出身であるとしてその思考法から脱することができないでおられること、すなわち「目に見えるもの」しか信じられないという考えがおありになることがありありと私にはうかがえた。そして、その方は「目に見えない」ということは思想なのでしょうと、言われた。
ところが私はすぐにそうですとは言えなかった。聖書は何よりも霊的存在を前提としていると考えていたので、そのことをどのように説明していいか適当な言葉が見つからなかったからである。いくつかの聖書のことばを頭に思い浮かべながら、私は「目に見えないもの、霊的なものの実在」をその方に説明していたが、なおその方も私ももう一つ腑に落ちず別れざるを得なかった。
それで家に帰ってその方の問いを更に考えていたら、次の聖句に思い至った。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:1〜3)
上述のことばに照らし合わせれば、目に見えないものとは、神のことばであると言えるのでないかと思った。私がその方が「目に見えないもの」は「思想」のようなものでしょう、「人間の考え」でしょう、と言われた時に、すぐに「ハイ、そうです」と言えなかった理由のようなものをつかんだ思いになったからである。
というのは、聖書で言う「目に見えないもの」は限りなくその実在が確かなものであり、それは神様ご自身であり、神様ご自身を信ずる人間の霊そのものを指していることが明らかであると思ったからである。そんなことを考えて、電車内でたまたま今日読んでいたバンヤンの『罪人らの首長に恩寵溢る』という作品の彼の自叙伝に、次のようなことが書いてあった。第12章の118というところだが「人の知恵による偽りの信仰と、人が神から生まれたことによって授かる信仰の間には大きな違いがあるのを知った」。
聖書中にしばしば登場する「目に見えないもの」は決して人間の知恵を指すのでなく、生けるまことの神様がおられ、その方にあずかっていのちを得ること、すなわち啓示(上から示される)をとおして新生のいのちを得ることと著しく関わっていることだと思わされた。
その方は、3月には故郷の東北に帰り、震災者の悩み苦しみの中でその方々の友となりたいと抱負も語ってくださった。目に見えないお方が私たちすべての人間の創造者である。この方の働きのうちに主がともにいて「望みの神」である主イエス様を指し示してくださると確信している。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。(1コリント2:9〜10)
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