(信越線横川駅碓氷峠付近 2010.11.26 ) |
神は愛である。神の全人格は愛である。神はご自身のために生きるのではなく、いのちと祝福を分け与えるために生きておられる。神は愛によってみ子を生み、み子にすべてを分け与えられた。神は愛によって人を造り、人を神の祝福の分担者とせられたのである。
キリストは神の愛のみ子であって、その愛を保ち、現わし、人に伝えられる。キリストの生も死もすべて愛であった。愛はキリストのいのちであり、またキリストが与えられるいのちそのものである。キリストは愛するためにのみ生き、キリストを信じるすべての人の中に、ご自身を与えるためにのみ生きられたのだ。「まことのぶどうの木」という考え方は、まず第一に、キリストのいのちを枝に与えるためにのみ生きる愛を意味している。
聖霊は愛の御霊である。聖霊はキリストの愛を分け与えることなしに、キリストのいのちを分け与えることはできない。救いとは、愛が私たちに打ち勝ち、私たちの中に入って来ることである。私たちは自分たちが持っている愛と全く同じ量の救いを受けることができる。完全な救いは完全な愛である。
キリストが唯一の、しかもすべてを含む新しい戒めとして、「互いに愛し合う」ことを教えられたのはけっして不思議ではない。クリスチャンが互いに愛し合わないとすれば、こんな不自然なことはない。クリスチャンが天のぶどうの木から受けたいのは、愛以外の何ものでもない。ほかの何よりもキリストが望まれるのは愛である。「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう(ヨハネ13:35)。・・・互いに愛し合いなさい」と主イエスは言っておられるのだ。
私たちがこの戒めに従っているかどうかをまず考えてみようではないか。私たちが主の愛の中にとどまる方法として、まず私たちの兄弟を愛することだ。私たちの服従の誓いをここから始めなければならない。私たち自身の家族の中での信仰の交わりを、聖なるもの、優しいもの、キリストのような愛としようではないか。私たちの周囲のクリスチャンのことは、何はさておいてもキリストの愛の精神をもって考えようではないか。私たちの生涯と行動とを愛の犠牲としようではないか。私たちの周囲の人たちの罪のために執り成しをしようではないか。周囲の人たちが何を必要としているかをよく考えて、その執り成しをしようではないか。私たちの中に住むキリストのいのちは愛であるがゆえに、私たちのいのちもすべて愛なるものとしようではないか。
しかし「あなたはこのようなことはみな当たり前のことで、さも簡単にたやすいことのように言いますが、あなたが言われるように生き、愛することはいったいほんとうにできるのでしょうか」と、読者のだれかが言うかも知れない。この質問に対して私は、「キリストがそれを命令されています。あなたは従わねばなりません。キリストはあなたが従わなければ、キリストの愛の中にとどまることはできないと言われているのです」と答えざるを得ない。「しかし私はそれをやってみましたがだめでした。私はキリストのように生きる望みはありません」と、もしあなたが言うとすれば、それはあなたがこの譬ばなしの最初のことばをよく理解していないということだ。どうか過去の失敗とか、今の弱さを反省して、ただひたすらにぶどうの木に向かって進んで行こうではないか。キリストはことごとく愛である。キリストが自らが愛されたように私たちにも愛することを教えてくださるのである。
祈り
「『互いに愛し合いなさい』とあなたは言われます。愛する主イエスよ。あなたはことごとく愛です。あなたが私にお与えになるいのちは愛です。あなたの新しい戒めは互いに愛し合うことであり、またあなたの弟子であることのしるしは互いに愛し合うことです。私はあなたのご命令を受け入れます。あなたが愛する愛をもって、そして私があなたを愛する愛をもって、私は私の兄弟姉妹を愛します。アーメン。」
(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳108~112頁より引用)
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