2010年11月21日日曜日

聖き御霊よ きよき神よ D.H.Dolman

神の聖霊を悲しませてはいけません。(エペソ4:30)

ゴードンのある著書に、キリスト教共励会のメンバーであったひとりの少女のことが書いてあります。

この少女は思いがけず急に死んでしまったのですが、彼女の葬式の時、ゴードンはキリスト教共励会の指導者に会いました。

「メリーは救われていましたか。」

こうゴードンは尋ねました。するとその指導者は答えました。「どうもはっきりと申し上げられないのです。この前の集会のとき、彼女は最後まで会堂に残っていました。その時私は、『あなたは救われていますか』と彼女にじかに聞いてみなさいと耳もとでささやく声を聞いたのです。ところが私たちの会話は別の方面に移っていってしまったので、とうとう彼女に聞いてみることができなくなってしまいました。」

それから日曜学校の教室の入口でゴードンは牧師に出会いました。

「メリーは救われていましたか。」

ところが牧師の答えはこうでした。「それが、私も気にかかっているのです。彼女は私の気に入っていた姉妹のひとりで、なかなかの勉強家でした。またとても活動的でりこう者でした。この前の日曜日には説教のあとで私のところへやって来て、トラクト(注:福音文書のこと)を配りたいと言って少しばかり持って行きました。その時、私の書斎には、ほかにだれもいなくて彼女とふたりだけでした。私は何か彼女の魂の問題について話さなければいけないように感じました。ところがその時、私のところへお客が来たので、もう二度と再び彼女と話す機会がないということになってしまったのです。」

葬式のあとでゴードンは、悲しみにうちひしがれている母親と少しの間話し合いました。その時もゴードンは同じように聞きました。

「メリーはキリストのものとなっていたでしょうか。」

「もしそれがはっきりとわかっていさえしたらと思うのですが。あの子のなくなる一日前に私の心の中に『メリーとお話ししなさい』という細い声が聞こえました。しかし、私はあの子を興奮させてはいけないと思ったのです。私は最後の時がこんなに早くやって来ようとは夢にも思いませんでした。ああ、私があの時確かめておきさえすればよかったのですが。」

ゴードンはこの話のあとにこう付け加えています。

「メリーが救われていないのではないかと疑う理由は私にはありません。彼女がいま天国で救い主とともにいて、いつの日か彼女に再び会えたらと私は望んでいます。」

私の心を打ったのは、聖霊が三人の神の子たちをお用いになりたいと望んでおられたということです。御霊は彼らのくちびるをお用いになりたいと思っておられました。ところが、だれもこの御声に従わなかったのです。

御霊に満たされることと、力を受けることとは、神の子すべてのために備えられているものなのです。ただ単に、主に奉仕するときにこの恵みが必要なばかりではなく、自分自身の霊的な成長のためにも必要なのです。この恵みは、すべての人のためのものです。もしあなたがこの賜物を受けていないとしたら、もうこれ以上、主に対して、あなた自身に対して、またあなたの周囲の人々に対して、聖霊に満たされていないという罪を犯さないでください。

聖き御霊よ 御力もて
罪のこの心 きよめたまえ
わが魂は 長き間
罪の支配の とりこなりき
聖き御霊よ きよき神よ
わがこの心に住みたまえ
まがし思いの くらいをやぶり
ただなれのみぞ われを治めよ

(『もうひとりの助け主』D.H.ドーマン著羽鳥純二訳97~100頁より抜粋引用)

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