(早稲田奉仕園スコットホール:ヴォーリズ設計1921年) |
イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(ヨハネ21:25)
先週の金曜日から日曜日のことを記そうとして、まだ日曜日にお会いした新しい人との出会いを記していないのに、月曜日には都内の某所で主の導きとしか考えられないお二人の兄と弟の方に初めてお出会いし、そのことを先に書かざるを得ないからである。主イエスを信ずる者にとって一つとして無駄なことは起こらない、それを次々書いていても決して追いつかないと思わされたからである。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:6)
この兄弟であるお二人はまだ30代であろうか、今時の青年とは思われない精悍さと聖さを併せ持つ好青年のように私には思われた。お二人のお母様と私は同じ教会にほぼ40年前に集っていた。そしてその方が結婚し、牧師夫人となられるため千葉に行かれ、それ以後はお会いできなくなり、風の便りに消息をお聞きする程度であった。ところが、その方が昨年亡くなられたということを何ヶ月か前、これも偶然市内の道端で何年ぶりかでお会いしたその方の実兄からお聞きしてびっくりしたことがあった。
その遺児の方とお出会いしたのだ。互いに会うことを約束したわけでない、偶然お会いしたのだ。もちろん伏線はあった。家内が何ヶ月か前、都内の某古本店で信仰書を探していた時、はるばる軽井沢から出てきたという真面目そうな青年が同じように信仰書を探しているのに出会い、書店での立ち話をする(互いに情報を交換する)内に、その青年が自分がかつて親しくさせていただいた知人の息子さんだと知り驚かされた経緯があった。
月曜日に出かけた某所には私だけでなく家内も一緒であった。その家内が以前一度会っているそのお兄さんを数人の方の中から見つけた。事の次第を知らされた私はお二人と初めて会ったのだが、それと知り、弟さんの顔立ちを見て懐かしさがこみ上げてきたのであった。それもそのはず40年前一緒に教会で会計の奉仕をしたその方のお母さんの面影がそっくりそこにあったからである。お兄さんにももちろん私は初めて出会った。ところが、そのお兄さんには今度はお父さんの顔立ちがはっきりと刻印されていたのだ。
実は、私はその方のお母さんとだけでなく、その方のお父さんとも面識があり、京都の同じ牧師さんから洗礼を受け、お世話になっていた間柄であった。その方はもうすでに神学生になっておられたか、なっておられなかったのか、今となっては記憶が定かでないのだが、その牧師さんから紹介されたりして、その方が牧師になられてからも何度かお会いしていたので、その謦咳には触れていたからである。
嬉しくなり、その方々と同行の方に記念のために写真を撮っていただいた。そしてその日に、早速メールでお兄さんにお送りした。そして昨日そのお礼のメールが来た。メールの中にはそれぞれ兄弟姉妹4人の近況が記されていた。そのいずれの方もご両親の信仰を受け継いで主イエス様を証しておられることを知ることができた。最後に「昨年の11月16日に母は召されました」と書き添えてあった。するとお会いした15日はほぼ一年前だったことになる。
お父さんはそれよりも何年か前に召されておられる。しかし、こうして遺児の方がそれぞれはっきり主イエス様に従っておられる姿を私は深く知り、涙せざるを得なかった。こんなことを言って失礼かも知れないが、田舎の牧師さんの家庭として決して経済的に豊かでなかったのではないか。またある意味で一般の人に理解されない苦しみもあったのではないか。そのような環境の中で、ご子息がそれぞれ主の証人になっておられるからである。ここには恐らくお父さん、お母さん、また主にある兄弟姉妹の方々の「祈り」が背後にあったことと推測する。
子どもを育てることが今日ほど困難な時代はない。しかし、たとえどんなに私たちが不完全でだめな親であっても、主を信頼する「祈り」によって子どもを育てることができるのではないだろうか。私たちは人間のそのような「祈り」の根底に何物にも代えがたい主なる神様のとりなしがあることを忘れてはならないのではなかろうか。「聖霊」なる神様について的確に記した良書である『もうひとりの助け主』(D.H.ドーマン著羽鳥純二訳17頁)には次のように記してある箇所がある。
愛する兄弟がた、ここに最も敬虔な母親よりも聖いおかた、この世の最も聖いおかた、最良の父親さえも比べものにならないほど罪と汚れとを憎んでおられるおかたがおられるのです。最も優しい母の愛でも比べることさえできないほどの愛を持って、あなたを愛してくださるおかたがおられるのです。それこそ御霊の愛です。
「友よ、神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたのあがないの日に備えるためにその聖霊によって、証印をおされたのです」(エペソ4:30、ウェイマス訳)
(「刈り入れを 望み福音 の種蒔け」「生まれしは 聖霊のわざ 遺児に見る」)
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