2010年11月6日土曜日

展望 ハンス・リルエ

(南ドイツ・スイス国境のボーデン湖畔:ミュンヘン行きのバス車窓より)
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。・・・イエスは彼(ペテロ)に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」・・・ペテロは彼(ヨハネ)を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(新約聖書 ヨハネの福音書21:4、17~18、19)

この湖畔の光景は、新約聖書のまったく偉大な現実性で終わっている。この静かな、澄みきったヨハネの福音書の記録が、ペテロの死の展望で終わっているのは、注意すべきことである。

おどろくべきやすらかさで、静かに、ほとんど荘重なひびきさえもって、しかも彼の死が語られている。ペテロが、復活日の朝の静けさのなかで、彼の新しい生涯の道を眼前に見ているとき、十字架の影がペテロのうえをおおっている。やすらかさのなかで、聖なる現実性をもって、彼の生涯の終焉が、彼に示される。彼の生涯が、彼の教師の栄光をもっとも高く讃美することへと集約されるその場所が――彼が主のために死ぬべきその場所が、はるかに以前から、主のちからづよい手によって彼に示される。かくして、すでに、ガリラヤの山国の丘にかさなって、彼が殉教者としてその生涯をとじるであろう、そして彼の血が主の栄光のためにその砂を赤く染めるであろう、ローマの七つの丘が見えている。そのときこそ、すべての不確実、失望、不決断が終わりをつげるときであろう。そのときこそ、あらゆる誘惑のなかをとおって、彼を天国の入り口までみちびいた主の、助力をあたえ、ちからづける真実の記念碑となったことだけが、彼の生涯にのこされているというときであろう。

イエスが愛し、この朝まだきの対話に立ち合った弟子(ヨハネのこと)のうえをも、十字架の影がおおっている。彼にもまた、彼の生涯のはたらきの終焉が示される。すなわち、聖書の最後の巻が書き終えられるまで、彼の生涯は終わってはならないのである。それが書き上げられたとき、彼の生涯の日も暮れてゆくであろう。

すべては、なんと偉大で、平穏であることだろう!

私は、かつて16歳のときに、非常に年をとり、もっとも経験にとんだ一人の宣教師の著書のなかで、すべての宣教師は、心のうちのすべての人間的な恐れや死の恐怖から解放されるために、いつでも平静に自分の死について考えることに習熟していなければならないと、書いているのを読んだことを忘れることはできない。彼はさらにつづけてこう書いている。

「あなたがたは、それは年寄りの言うことだと考えるだろう。しかし私はあなたがたに言いたい。人がその死の時を静かに見つめることを学ぶのは、まさに彼の仕事が最高潮であるときがよいのだ。そのことによって、彼のたどる道は、確実な、平穏なものとなり、彼の仕事は、目的のはっきりしたものとなるからだ」。

このような態度に似たなにものかが、この対話のなかにもある。この生涯の終わりを、平静に、そしてしっかりとした気持ちで眺めることを教えるのは、新約聖書に記されている使徒の実際生活に対して主が語りかけた言葉にある。かくして、イエスの言葉のうえには、センチメンタルな気分や哀調の影さえもない――むしろそれとは逆に、その唯一の結論は、「わたしに従ってきなさい」という、ほとんど軍隊口調の命令である。
(日本のガリラヤ湖、琵琶湖。昨冬の姿、今年も一月後にここに集う)
このようにして、ペテロと主との地上での交わりは、それがはじまったのと同じところで――すなわち、かつて彼の生涯を変えてしまい、今またあらたに正しい方向をあたえた、簡潔で威厳にみちた主の言葉で――わたしに従ってきなさい!という命令の言葉で――終わる。この明瞭な言葉で、ペテロのこれからたどる道も、そのこまごました点については彼はほとんど知らないとしても、明らかである。神の導きのもとにある限り、彼の道は、やすらかであり、確実である。

なぜなら、そのように考え、語り、行為することを彼に教えるのは、復活の主なのだから。もしも主が、死を越えて彼に語りかけるのであるならば、彼の生涯の最後の終焉を展望することが、どれほど彼を恐れさせることができるであろう? もしも主が、生を越えて、彼の生をも越えて、支配権を手中におさめたのであるならば、彼の眼前につづいている道を眺望することが、どれほど彼をひるませることができるであろうか。復活の主が現前するところには、神の永遠の意志そのものが、私たちの生に現前する。私たちは、彼が欲するより、一日たりとも長く生きることはないであろう。しかし、私たちの生涯の日も生涯の仕事も、彼が欲するより、一時間たりとも早く終わることはないであろう。それで十分なのだ。そしてこれからのちは、私たちの生涯のプログラムが、わたしに従ってきなさい!という主の言葉に集約するのを見るのは、私たちの生涯の祝福である。

そこには、湖の上を、いいあらわしようもない晩夏の日が暮れてゆきつつある。沈みゆく陽は、なおもう一度、惜し気もなく、その最後の光を、いっぱいに湖とそれをとりまく山々の上になげかけている。そしてもう一度、このみちみちた美しさの背後に、ガリラヤの海の姿がうかびでる。そして、この地上の湖のあらゆる美しさは、イエスがあるき、復活の主が転落の弟子をふたたび奉仕へと召しいだした、あの岸辺をさししめす沈黙の道標(みちしるべ)となるにちがいない。そして、この大地のあらゆる美しさは、死と罪に転落した世界に、生の力を注ぎこもうとする一人の人がそこにいるという、この一つの認識の背後にしりぞいてしまうにちがいない。世界の圧倒的な美しさよりも、はるかに偉大なものをあたえることのできる一人の人がそこにいる。この世的な体験のもつ高さや深さよりも、はるかに偉大なものを――生命と祝福とを、その手から私たちがうけとるべき一人の人がそこにいる。

こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:19)

(『海辺のキリスト』小川圭治訳44~48頁引用、引用に当たって二三箇所訳を変えたところがある。)

0 件のコメント:

コメントを投稿