(「紅葉に すすきの白さ 浮き立ちて」 御代田にて) |
主イエスは復活の後、今後地のはてを目標に福音宣伝の使命をになう弟子たちに不朽の遺産として「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」との確かなお約束を与え給いました。
神が人とともにすみ、人が神とともにすむということは、人類の歴史を一貫した金線であり、また歴史の完成を意味する事実です。神が人に呼びかけて重大な使命を負わせられる時には、必ずご自身を提供し、わたしがあなたとともにいる、これがそのしるしであると仰せ給いました。
数千年の昔モーセによってイスラエルの民をエジプトから救い出し、約束のカナンに導き給うた時与えられた、わたしはあなたがたとともにいる、とのお約束のお言葉を後の代々に至るまでも神は忘れ給いません。同様にわたしどもが罪のエジプトから救い出されてキリストの支配下にうつされた今日、神ともにいますという真の事実は不変です。
われわれ親子の愛情がどんなに強くてもつねにともにいるということは不可能です。時には突発した事件が人と人とを引き離します。時と距離とは物の世界を支配する一つの法則です。しかし神は信じる者にお約束のとおりつねにともにいますゆえ、時機にかなう助けを与えうるお方であられ、まことにいと近き助けなのです。活社会の中に人と人との磨きあいに摩滅しそうな弱い魂の要するのはこの助けです。
よしや一国の首脳が世界破滅のボタンを押したとしても、さらに強い神の聖旨は信じる者への責任を放棄されることはありません。「わたしはともにいる」とのお約束にまことの平安と助けを発見できるのです。しかも神は尋ねまわらなければ見出せないような遠方にいますのではなく、叫んでも声の届かない高所に座し給うお方でもありません。信仰が目ざめたらそこに見出すのです。
ヤコブも夢さめたそこに神を見、エリヤはイゼベルのおどし言葉に恐れ、荒野の穴にかくれて眠りからさめた時そこに神の備えられたパンと水を見出し、ペテロが獄に目さめたら天使がまっていました。「ともにいる」とのお約束は今日でも決して変わりはありません。これを信ずるか否かです。信仰とは神の招きに対し自分が心の底から「主よわたしは信じます」と応答する時生ずるいきた心の働きです。
ご自分をかくしておられる神(イザヤ45:15)、かくれたところにいます神は、信ずることによって見出せるのです。ともにいます神とともに歩む信仰の生活こそ人生の奥義です。
歴史に輝く聖徒たちの生涯を心して学びます時、神が彼とともにいまし、彼は神とともに歩んだと証されています。やがて創造の完成の時が来たり「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」(新約聖書 黙示録21:3~4)との栄えある約束の成就を信じ、勇ましく神とともに歩みましょう!!
(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著 11月13日のところより引用)
0 件のコメント:
コメントを投稿