(登山電車の車窓から by k.Aotani) |
運転手さんは私よりは年配の方のようだった(後からしかわからずお顔はよくわからなかったが)。親切に荷物を後部トランクにと、てきぱきと軽々しく運んでくださる。行き先地は「ハイラーク」と言ったはずだのに、「スカイラーク」ですかと問い返された。いやそうじゃない、「ハイラーク」ですと繰り返したら、やや間をおいて納得されたようだ。少し耳が遠いようだった。その後、乗せていただいた手前、お互いに様々な世間話をする。
まずはお天気だ。「どうですか、寒いですか」「日中はそうでもないが夜は寒いですよ、気をつけたほうが良いですよ」などと親切におっしゃる。窓外に、メルシャンの美術館を見ながら、昼間なら浅間山が見えるんだがな、と思いながら、ゆったりと後部座席に身を沈める。そのうちに「西軽井沢国際福音センター」が話題になり、運転手さんが時々お客さんを運んで行かれることが徐々にわかってくる。そして「御代田には教会がたくさんあるんですよ」とまで言われた。今までそういうことは考えもしなかったので意外感を覚えさせられた。
その内に、この方がセンターに出席される方々からキリスト集会発行の本を乗車のたびにいただいておられることがわかってきた。運転席の隠しポケットのようなところに『医者に直せない病気』(重田定義著)まであり、それを指しながら、これもいただいたのだと嬉しそうに話される。さらに私も親しい「ハイラーク」のFさんの名前が飛び出し、その方から誘われて、今夜6時に行く約束をしているんです、と言われた。わずか10数分の乗車時間であったろうか、すっかり暗くなった浅間山麓の「ハイラーク」に降り立ったが、その車内の会話でなぜか心が暖かくなっていた。じゃあ6時にまたお会いしましょう(お会いできますね)、とお別れした。
その後、とっくに6時を過ぎていたであろうか、私たちも近くの西軽井沢センターへ今度は住人のYさんの車に乗せていただいて出かけた。センターにはあの駅前のさびしさと違い100名余りの方々になろうか、皆さんすでに食事の席についておられた。遅ればせながら、空いている席を見つけて若い娘さんたちの仲間に加えてもらった。肉じゃがのおいしい食事に舌鼓筒しつつ聞くともなく、若い方々の会話の中にいれていただいていたが、何気なく顔を上げた時、遠くの食堂入り口に一人の方が立って少しきょろきょろしておられる様が見えた。先ほどの運転手さんに間違いがなかった。少しおめかししておられるようだった。私は思わず嬉しくなって手招きよろしく駆け寄って行き、早速、席に案内した。
初めてセンター内に足を踏み入れ、しかも食事をいただくなんてと、その方はやや緊張の面持ちで「会費はいくらですか」と問われる。もともとそんなものはキリスト集会では決めていない。そういうパブリックなものでなく、各人が決められた安い食費を自己申告で払うシステムを取っているのでご遠慮なさらないで、といつの間にか席に加わってくださったKさんとともに勧める。その方も自然にお箸に手を伸ばされた。いつの間にか、娘さんたちは席を立たれ、私たち60代、70代の男だけがその一角に集い、自然な交わりが与えられた。ほどならずして招待しておられたFさんご夫妻も現われる、交わりは盛り上がる。
ところが私とは先ほどまでは(一時間前)全く見ず知らずの赤の他人であったのに、今や一宿一飯の間柄になったような思いがするから不思議というものだ。そしてすっかり話し込んだ。その方が言われるのに、御代田には教会がここ以外にもあるが、この教会の人々だけが本をくれた、私は今までいろんな宗教を見てきたが、キリストだけがほんものだとなぜか学校時代の教科書を通して考えていたんですよ、と。その他、ご自身が今のタクシーの運転手をされるまでの羽振りの良かった二十数年前の話から、バブル崩壊の犠牲の中ですってんてんになり、トラックの運転手もなさり今はタクシーの運転手だと話してくださった。
私以外にもあらかじめこの方が来られるようにと祈ってこられた男性方も交わりに加わってくださり、それぞれご自分がどうしてイエス・キリストの救いをいただいたか話してくださった。その方は皆さんの話を真剣に聞かれて、その後、私に「私は家族を信ずることは駄目だと思っているんです。それよりもイエス・キリストを信ずるのがベストだと思って、少しでもイエス・キリストを知りたいと思ってきたのです」とおっしゃった。そして「そうかと言って、私の家庭が特別仲が悪いということはないんですよ、むしろ妻はやさしいくらいですよ」と言われた。この方がいかに真剣に主イエス様を求めておられるかがわかってきて、本当に嬉しくなった。
夕食の後、7時半からの集会にも喜んで出られた。なぜか、その日の集会は私が話す番であった。私はもともと話すのが下手でくどくどと話すばかりであった。それもいつもより時間を喰うばかりであった。話し終えるや、私はそのころは200名前後にふくれあがっていた聴衆の方々にも申し訳ない思いで一杯でしばし座席で沈んでいた。その内、やおら立ち上がって最前列にいらっしゃったその運転手さんのところに立ち寄り握手をした。それだけで十分だった。この方はもはや私には兄弟に思えたからである。この方が私の話から何を知られたのかはわからない。しかし主イエス様は全てをご存知である。この日の私の引用した聖句を最後に書きしるしておく。
そこで、イエスは口を開き、彼ら(弟子たち)に教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:2~3)
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