2010年3月21日日曜日

まことの弟子たち 


「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 多くの実を結ばない者はキリストの弟子になれないのだろうか。おそらくそういうことはないとは思うが、そのような人はまだ未熟な段階にあるということだ。多くの実を結ぶ人については、キリストは、「わたしの弟子であり、まことの弟子である」と言っておられる。私たちが男らしい男を見て、「あれがほんとうの男だ」と言うように、主は主のみこころにかなった、弟子の名にふさわしい人を、「多くの実を結ぶ者」と呼んでおられるのである。福音書の中の「弟子」ということばには二つの意味があることがわかる。ある時はキリストの教えを受け入れたすべての人を指している。ある時はキリストに全面的に従い、キリストの訓練を受けたより親しい仲間だけを指している。その相違はどんな時代にもあったということだ。心を全くささげ尽くして神に仕えようとした比較的少数の神の人がいつもいたと同時に、大多数の人々は神の恵みとみこころについて、ごくわずかな知識を得るだけで満足して来たのである。

 この少数のより親しい仲間と、この仲間に加わろうとしない多数の人々との間にどのような相違があるのだろうか。私たちはその違いを「多くの実」ということばの中に見いだすのである。多くのクリスチャンにとって、最初の新生の時には個人的な安全を願うことは正当なことではあったのだが、最後までそれが信仰のただ一つの目的になってしまうことがある。そこには奉仕の観念、つまり「実」は、いつも第二義的な、そしてごく従属的なものであるという考えがあり、多くの実を結びたいという正しい欲求は全然関心の的となっていない。主のためにのみ生きよとの叫び声を聞いた魂は、これではけっして満足できるわけがない。

 「多くの実を結び、わたしの弟子となる」というみことばを最も厳粛に考えてみることを、私は本書の読者の一人一人にお願いしたい。「多くの実を結ぶ」というみことばを、私たちがそうならなければならぬ、そうなることができるという、私たちへの天のぶどうの木の啓示として受け取ろうではないか。そして自分の力だけでこれを試みることが、全く不可能であり、愚かなことであることを十分に悟ることだ。このみことばにより、新しい目でぶどうの木を見て、私たちは天のぶどうの木に満ち満ちた豊かな人生を生き抜く決心をしようではないか。私たちはもう一度、「私はまことのぶどうの木です。私は父の栄光のために多くの実を結ぶことができます」という信仰と告白とをしようではないか。

 私たちは他人をとやかく言うことはない。しかし私たちは至るところに神のみことばの二種類の弟子を見ることができる。私たちがどちらの種類に属すべきかについては今さら言うべきことはない。神にすべてをささげる生活を神がどのように希望しておられるか、私たちが聖霊に満たされることを神がどのように希望しておられるかを、私たちにお示しくださるように神にお願いしようではないか。私たちの望みは、全ききよめ、切れることのない主とのつながり、最も密接な霊の交わり、豊かな実り、つまりまことのぶどうの木のまことの枝となること以外であってはならないのだ。

 世界は滅びに向かいつつある。教会は力を失ってはいないか。キリストの道はより困難であるように見える。キリストは心のすべてをささげ切った、多くの実を結ぶクリスチャンが少ないことを嘆き悲しんでおられる。私たちはそれがどのような意味を持ち、またどのようにして起ったか知ることは難しいことではあるが、ただ私たちはキリストに向かって多くの実を結ぶキリストの枝であることを告げようではないか。私たちは今すぐにでもキリストのみことばが意味するとおりの弟子となろうとしていることを告げようではないか。

 祈り
「『わたしの弟子』とあなたはお呼びになります。聖なる主よ。私が多くの実を結ぶことは、まことのぶどうの木であるあなたが、まことの枝であり、いつもあなたのみこころに従う弟子を持っておられる証拠です。私が多くの実を結べば、あなたがそれを数えてお喜びになることを、幼子のような無心な思いで私が感じ取ることができるようにしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳80~84頁より引用。「道端に 咲き満ちる群れ 水仙の 黄色鮮やか 主の御旨よ」「道端に 十二弟子の 水仙か」 )

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