2010年3月19日金曜日

一、琵琶湖畔へ 

 日曜日、近江八幡のTさん宅で持たれる礼拝に出席した。当日はちょうど左義長祭で駅はいつもより人が多かった。私は滋賀県人だが今は他郷にいる。けれども、ここ数年三十数名の方々と、年に4、5回のペースで礼拝をご一緒させていただいているので、何度となく行き帰りには駅頭に立つ。

 日曜日の礼拝は主イエス様を信ずる方々のうち男性(互いに「兄弟」と呼びあっているのだが)が自主的に聖書を朗読しそれに基づいて祈る。また皆で自由に賛美をする。その繰り返しが礼拝である。みことばと賛美が中心であるのだ。礼拝は集う一人一人にまかせられていてあらかじめ決められたプログラムはない。各人がみことばを通して主イエス様を仰ぎ見、心から賛美する。ムーディーの項で考えたように賛美はそれぞれの主なる神様への思いを歌を通してあらわすものだ。だから、通常の教会で行われる牧師によるメッセージは礼拝の中では一切ない。メッセージは礼拝の後の福音集会という時間になされ、それも牧師でない普通の人がそれにたずさわる特徴を持つ。

 ところで、この日曜日T宅で持たれた礼拝は次々と兄弟方が聖書を読み祈られた。また賛美曲も次々リクエストされ、間が空かず流れるような礼拝であった。お一人お一人が朗読してくださるみことばは、どのみことばも生きていて、飢え渇く礼拝者の心を生き返らせるものだった。このような礼拝は誰が中心でもなく、目には見えないが、御霊なる神様が王座を占めておられるとしか表現しようがない。その中でなされた一人の方の聖書朗読を次に記させていただく。

あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分のものではないことを、知らないのですか。(1コリント6・15、19)

 集いをあらわすにふさわしいみことばと思った。集いを終えて、また関東まで戻る鈍行列車の中で、ああ、あすこにはいのちがある。左義長祭に集まる人々の目からすれば虫けらに等しい者の集まりに過ぎない。しかし、たとえ一握りの存在であっても一つの絆で結び合わされた神の家族があすこにはある。そして、自分もそこに加えられていたのだという喜びだった。そして、私はいつしか遥かな時代へと思いを馳せていた。それは「近江兄弟社」という一風変わった群れを生み出した一人のアメリカ人の存在である。家に帰って何年ぶりかでその本を紐解いた。本の題名は『近江の兄弟』(吉田悦蔵著大正12年〔1923年〕初版)である。これから折々にこの本を紹介して行きたいと思う。先ずは第一章 「琵琶湖畔へ」、である。

 日露戦争の真っ最中、旅順口が落城して血生臭いお正月を迎えた、あの年の二月、思い出せば明治三十八年(註:1905年)である。その二月の二日は、北風のふく厭な日であった。午後の四時過ぎにはすでに太陽が比良山の彼方に、雲がくれしていて、薄どんよりした空は、安土の城址と、湖上に突き出た奥島半島の隙間より一陣も二陣も、イヤ間断なしの寒風は、野中に淋しくたっている、上り下りのプラットを連絡する陸橋もない、小ぼけな八幡ステーションにふきつけていた。その時列車到着、僅かばかりの旅客の乗り降りの混雑中に、立襟した濃紺色格子縞の着古びた外套、山高帽、肩よりななめにかけた写真器も古そうな姿に、白色人種特有の美しい歯を出して淋しく微笑しながらたっている、年の頃は十八とも二十とも判断できぬ、若さをもったアメリカ人がいた。それがヴォーリズさんである。

 ボリスという人もある、ヴォリスという人もあるが、本人はまさにヴォーリズですから間違わないでください、特に語尾はスでなくズですと訂正するほど小さいところまで気を配る青年で、名前からみても、和蘭訛の匂いがするように、元は和蘭種と英国とフランスの血が混淆したアメリカ人である。国の中央カンザスに生まれ、熱帯と砂漠で有名なアリゾナに育ち、後、中学時代より大学生活を終わるまで、海抜一マイルの高原、ロッキー山脈の東麓コロラドに暮らしてきたヤンキーなのである。

『私はとうとう日の出る国へきた。湖畔の商業学校と中学校に教鞭をとるのだ。日本語はまだ三日前に横浜に上陸したばかりだから、オハヨー、サヨナラ、だけしか知らない。きて見ればコンナ田舎、寒い、淋しい、孤独だ。近江の国は人口八十万ときいてきたが、アメリカ人は私の外に一人もいない。英語を話す人もありそうでない。日本は日の出る国ではない、日の入る国のようだ。イッソ次の列車で横浜へ行って、船に乗って帰ってしまった方がよい』

 と回顧録に書いてあるほど、ヴォーリズさんは八幡駅のプラットで感じたのである。

 それは東海道近江八幡駅に、夜中または朝早く下車した日本人の誰もが実感することである。八幡町はその姿を見せないで森のかげにあるし、ステーションから町まで、両側田圃の一筋道を半里以上ゆかねば町の入り口につけないのだもの。

 A先生が学校からお迎えにこられた。先生は薩摩人で、発音に薩摩土音の混じる人であった。 ヴォーリズさんはA先生の案内で始めて八幡町の土をふんだ。そして前任のワードという三十男の借りていた家賃三円の、ダダッ広い家に、片目のコックさんとともに住み込むことになった。

(写真は数年前に近江八幡の人たちと町並みを見て歩いたときの写真である。画面の下に4名がいたのだが、カットしての編集である。正面の山が鶴翼山・八幡山である。)

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