2010年3月2日火曜日
11章 THE GOSPEL IN SONG (2) 聖歌429番『九十九ひきの羊は』
サンキー氏は続いて物語を続けている。「ノースフィールドの新しいコングリゲーショナル教会のために隅石を置こうとしていた時、ムーディー氏が私に隅石に立ってオルガンの伴奏なしに「九十九ひきの羊」を歌ってくれと言った。彼はこの教会の使命は失われた魂を捜し求めることにあると切に望んでいたからであった。私が歌っている間、ムーディー氏の家の近くの小さな小屋で死の床にあったカルドウエル氏は川沿いで歌を聴いた。ちょうどその時、彼は妻をベットサイドに呼んで南の窓を開けてくれと言ったのだった。彼は誰かが歌っているように思ったからであった。二人は一緒になって彼をいのちに導くために用いられてきたあの歌を聴いた。しばらくして彼は息を引き取ったが、天国の大牧者のもとへと凱旋していった。」
この特別な賛美歌の始まりに関して(もっともこれもサンキー氏自身が語ることによるのだが)、その述べていることを信ずることはそんなに難しいことではない。彼が初めてスコットランドに行った時、グラスゴーからエジンバラまでムーディー氏と一緒に旅していたが、たまたまアメリカの新聞に載っていたエリザベス・クレファンの詩を読んでいた。その詩を切り取り、賛美歌の間に挟んでおいた。
翌日伝道者たちはエジンバラの大きなフリー・アセッンブリー・ホールで集まりを持っていた。ムーディー氏は「良き羊飼い」について話をしていて話の終わりにサンキー氏にソロで歌って欲しいと頼んだ。その瞬間、汽車で読んだ言葉が心に浮かんできた。サンキー氏は目の前にその詩を置いて小さなオルガンに座り、二三のコードを鳴らしていたが、それから無意識のうちに次から次へ浮かび上がってくる音調で詩を歌ったのだった。彼の声だけが全聴衆に聞こえるほどであり、凛とした静けさが場内を覆っていた。
九十九ひきの羊は檻にあれども
戻らざりし一匹はいずこに行きし
飼い主より離れて奥山に迷えり
九十九ひきもあるなり、主よ良からずや
主は答えぬ「迷いし者もわがもの
いかに深き山をも分け行きて見い出さん」
主は越え行き給えり、深き流れを
主は過ぎ行き給えり、暗き夜道を
死に臨める羊の泣き声をたよりに
「主よ山道をたどる血潮は何ぞ」
「そは一ぴきの迷いしもののためなり」
「御手の傷は何ゆえ」「茨にて裂かれぬ」
谷底より空まで御声ぞひびく
それから大きなクライマックスの部分
「失われし羊は見い出されたり」
御使いらは答えぬ「いざともに喜べ、いざともに喜べ」
There arose a glad cry to the gates of heav'n, ‘Rejoice, I have found my sheep.’
に達した時、感動が場内を覆った。
以来この歌詞が歌われ聴かれるたびに何十万人という人々の心が一様に感じる感動である。この音調は決して高い質の音楽ではない。サンキー氏の他の作曲にくらべ見劣りさえする。だがまさしく単純そのもののメロディーが特別な目的をもたらすためにいかに有用であるか、それにくらべて、もっと完全な作品がうまく行かなかったりするかの例証である。音楽自身は注目されないかも知れないがそれに対してメッセージを運ぶのに充分な力を持っていることを証明しているのだ。(D.L.Moody By CHARLES R. ERDMANの107~108頁をもとに)
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。・・・ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(新約聖書 ルカ15・4、7)
(昨日今日の文章は音楽の専門家からすると首をひねる部分があるかもしれない。この聖歌は良く歌われた。最近はどうなのだろう。私も最近歌っていないが、歌詞を読むだけでなく、やはり歌を歌う時に、よりこの詩の意味するところがリアルに迫ってくる。)
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