2010年3月3日水曜日
病床にあった妻の夫への手紙(3)
一人の異国の病床にあった方の手紙を紹介してきたが、ずっと中断してしまった。その後の彼女はどうしたのだろうか。間を抜かして1月26日以降の手紙を抜粋させていただく。
(ジュネーヴにて 1931年1月26日)
いつもいつも、御自分の脈を見ておいでになってはいけません。「自分は信仰的に進歩したのだらうか、それともしないのだらうか」と、繰り返し御自分におたずねになってはいけません。わたくし共自身がそれを少しも感じないといふことこそ、信仰の本質でございます。わたくし共は本たうに単純に、その日その日を送らなければいけないと存じます。目前の務めを出来るだけよく果たして、余のことは皆―信仰の進歩も含めて―神様の御手におまかせしなければいけないと存じます。わたくし共自身ではなしに、神様だけがわたくし共の魂と生命の支配者なのでございます。神様は、お望みのものをお望みの時に、わたくし共からお創りになります。
わたくし共のただ一つの努力は、神様の愛と全能の御手の中に身を置いて、静かに、さうして喜んで、神様に身をゆだね切るといふことでなければならないと、存じます。ああ、それにはわたくしはまだまだ、だめでございます。今でもやはりわたくしの心は、最初の一吹きでもう、怖れと気後れで一杯になってしまひます。・・・あなたは、わたくしの信仰上の進歩といふことをおっしゃいます。もし信仰上の進歩といふものが、わたくし共が自分をだんだん小さなもの、不安なもの、無用なものと感じることでございますなら―「自分は、神様がこんなものでも用ひようと思召しになる、使ひ古した銹びた道具のやうなものだ」と、思ふことでございますなら―わたくしも、ほんの少しは進歩いたしましたのかも知れません。けれども、それだけでございます。そして本たうにへり下った思ひで申し上げますけれども、皆さまがわたくしについておっしゃいますことを聞きますと、わたくしは大へん恥しうございます。忠実な証人(あかしびと)になりますことは、わたくしの一番大きな望みなのでございますから、それは嬉しいのでございますけれど、自分が相変わらず、神様の婢(はしため)となるには余り相応しいものではないといふことは、やはり恥しうございます。
(ローザンヌにて 1931年2月8日)
わたくしも×夫人のやうに「もし私の病気が治ったら、それはお祈りで治ったのです」とは、申せませんでせうか。わたくしのためにお祈り下さったのは、一人ではなく大勢の方でございますもの。それはともかくも、わたくしは、神様がもしさうしようと思召すならば、わたくしをお治しになれるといふことを知って居ります。また、良かれ悪しかれ、今後起りますことは、神様の御意(みこころ)であることを知ってをります。
(ローザンヌにて 1931年2月16日)
わたくしの容態についてお尋ね下さいましたけれど、容態は大へんよろしうございます。このことについてお尋ね下さる皆さまに、左様お伝え下さいませ。二三ヶ月前と同じやうに幸福な健康状態にいるといふだけではございません。その言葉の本たうの意味で幸福なのでございます。わたくし共の結婚の最初の数年と同じやうに幸福なのでございます。ですから、この数年の間よりも、ずっと幸福なのでございます。一月後には自分がどのやうになるか、またロンドンに帰りましたらどのやうになるか、わたくしにはわかりません。ただ、只今の一時は、わたくしは大へん元気でございます。
(ローザンヌにて 1931年2月22日)
魂の救ひについておっしゃいますこと、わたくしにはよくよくわかります。結局それだけが、努力する値うちのあることでございます。そして信仰といふ点からも、全くの心理といふ点からも、それは強くわたくし共の心をとらえます。一つの魂をその深みにまで究めるといふことは、なんといふ驚異でございませう。そして、この魂を助けることが出来るといふことは、更になんといふ大きな驚異でございませう。わたくしは誰か人と接触いたしますと、その人を究め尽くして懺悔に導きたいと、あまり熱望いたしますので、人に「召しによる悪指導」と言はれかねないくらいでございます。けれども、もし愛をもっていたしますならば、それは良い行ひと信じます。いえ、良い行ひであることを、わたくしは知ってをります。自分に出会ふ人々の外面しか見ない人を、わたくしは本たうに気の毒な方と存じます。
(以上は『その故は神知り給ふ』井上良雄訳65~67頁の引用である。旧かなをなるべく残した。いつも同じことを言うが、この手紙文は女性らしさが出ていていつも感動する。ところが一方「婢」の字を印字するために女扁の漢字を探していたら、実に様々な女扁の字が出てきた。まさしくエバそのものだった。その中で「婢」はエバの末裔マリヤのことばだと思い至った。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」〔1サムエル16・7〕。久しぶりに晴れ間が出た。庭のバラもやっと蕾を開いた。かくして、花瓶におさまる記念写真と相成った。)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿