以下は以前のブログ記事「泉あるところ」で記した「一つの賛美歌の誕生の舞台裏」(2008.11.25)と題して述べたものの再録である。
35、6年前、私は教会で一人の良き信仰の先輩を亡くした。中学校を出てすぐ家具製造職人として働いていた人だった。当時私は足利に住んでいて電車で時間をかけて春日部の教会まで通っていた。帰りが遅くなり電車がなくなると、彼が気前良く車に乗せて私の家まで送ってくれた。気さくでどんな人も愛する人であった。その彼が癌で亡くなったのであった。葬儀の席上で彼の愛唱歌(聖歌476番賛美歌520番)を歌った。
安けさが 川のごとくに心を浸すとき
悲しみが 波のごとくにわが胸を満たすとき
道がいかなるときにても なんじは教えて言わ しむ
安し 安し 心安しと
まだ、主を信じていてもイエス様のよみがえりを心の底で受け入れていなかった私にとって彼の死は悲しみの方が多かったように思う。爾来この歌を歌 うたびに35、6年前の彼の葬儀を思い出す。ところが昨日ある本を読んでいたらこの歌の出典が書いてあった。それで少しインターネットで調べてみた。
この歌詞の作者はH.G.スパッフォード(1828-1888)である。彼はシカゴの裕福な実業家であり、十四歳年下の奥様との間に四人の女の子 が与えられ何不自由もない幸せな生活を送っていた。その彼が二つの衝撃的な出来事に遭遇したことがきっかけでこの歌詞は生まれたと言う。
先ず第一は1871年にシカゴの大火に見舞われ、彼が投資していた不動産が全部灰燼に帰したできごとである。それから2年して彼は奥様の健康を気遣い、一家でヨーロッパへ休暇に出かけようと計画を立てた。汽船で大西洋を横断してパリへと行く予定だった。ところがいざ出発となって彼の仕事が入り、奥様とお子さんが先に行くことになった。
惨事はその大西洋航路で起きてしまった。これが第二の出来事だ。イギリスの帆船が奥様お子さん方を乗せていた「ル・アーブル市号」というその汽船に衝突し乗客は冷たい海に投げ出され、226人の人々が犠牲になったのだ。その中に彼の子どもたち全部がふくまれていた。奇跡的に奥様は救い出される。9日間後に別のイギリス貨物船でカージフに上陸した彼女は夫に打電する。「ヒトリスクワレタ」。
報せを受けてスパッフォードは妻を迎えに大西洋航路に乗り込む。船長より海難の場所を通過する際に説明を受け、深さ3マイルの深海を見つめる。悲 しみが海の波のように彼の心を浸したのだ。しかしその時、彼の心には先ほどの歌詞が天啓のごとくわきあがってきたと言う。(くわしくは http://www.loc.gov/exhibits/americancolony/amcolony-home.htmlを見られると良い。その サイトには奥様の打たれた電文、彼の用いた聖書などがネットで見られる。)
「昔、ペット殺され」。昨日の東京新聞の朝刊の見出しであった。34年前の出来事が今もトラウマのように彼の心を縛り、信じられないような殺害がなされた。スタッフォードにとって二つの大きなトラウマがあった。そのトラウマがトラウマとならなかったのは
道がいかなるときにても なんじは教えて言わしむ
安し 安し 心安しと
言われる、「なんじ」であるイエス様に対する信頼であった。娘たちは深海にいるのではない。彼らとまた天の御国で再会できると彼は思い定めていた。 彼はその後与えられた長男をまたしても病気で幼くして失う。波乱万丈、しかし彼の主への思いは尽きなかったようだ。後年イスラエルに移住しアメリカ・コロ ニーを創設し、エルサレムで亡くなる。(なおこの讃美歌を作曲した方もその後列車事故で亡くなる。不思議な作品ではある。)
私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(新約聖書 ピリピ4・11)
ここまでが以前のブログの再録である。ところで今回私たちの敬愛する若くして有能なる医師Tさんが45歳で召され、その葬儀がつい二週間前持たれた。最初に歌われた歌はやはりこの歌であった。歌詞は以下のものであった。
安けさは 川のごとく 心ひたす時
悲しみは 波のごとく わが胸 満たす時
すべて 安し 御神 ともにませば
悪しきもの 迫りくとも 試みありとも
御子イエスの血の いさおし ただ頼む わが身は
すべて 安し 御神 ともにませば
見よ わが罪は 十字架に 釘づけられたり
この安き この喜び たれも 損ないえじ
すべて 安し 御神 ともにませば
よし天地(あめつち)崩れ去り ラッパの音とともに
御子イエス あらわるるとも などて 恐るべしや
すべて 安し 御神 ともにませば
遺された4人のお子様、奥様が別離の悲しみがある中で、天国での再会の約束をしっかり握っておられた。奥様は最後の御挨拶で医師としての御主人の働きがいかに人のいのちを守るための血みどろの戦いであったかを主にある尊敬をもって話され、御主人の病のためにいただかれたさまざまな人々の愛に感謝し「私たちはこんなに神様に愛されています、幸せです」と証された。私自身もあの30数年前とは異なり、なぜか最後のフ レーズが今回繰り返し思わされた。それは主イエス様が再び来られることを心から信じられる平安である。げにD.L.Moody By C.R.Erdmanが描くごとく、福音賛美歌は私たちの心の中にまことの信仰を植えつけるものだ。
大黒柱を失ったTさん御一家の今後のために祈り続ける者でありたい。
(写真は庭先の椿の花。知人は先日部屋に入って来るなり、この椿を見て「優雅ですね、優雅ですね」と感にいっておられた。家人によるとかつて所属した教会の母の日にプレゼントしていただいた丈2、30センチ足らずのものが始まりだということだ。さて本日の記事は、受難週のユダの裏切りの曜日を間違えて記してしまい、いったん本日分として載せたが、途中で間違いに気づき、明日の分として載せることにした。実は内心自信がなかっ たので気になっていたが、パスカルの『要約イエス・キリスト伝』の叙述で、間違いを確かめた。彼の書き方は独特なのだが「その翌日3月12日火曜日、朝、弟子たちはまた、いちじくの木のそばを・・・、3月13日水曜日、朝、イエスは、ふつかの後には過ぎ越しの祭りになることを告げられた。・・・、その日、イスカリオテ・ユダにサタンがはいった・・・」と記している。日時の限定は当時のフランスの聖書知識によるものだと思うが、曜日はほぼこの通りだと思う。申し訳ありませんでした。)
0 件のコメント:
コメントを投稿