2010年3月20日土曜日
二、暗い住居
近江八幡の町は近江商人の町である。旧家というのが二百年以前から主人顔をしていて、番頭たちが長年勤めた報酬で暖簾分けをしてもらった分家が、街の全 体に散在している。旧式で、保守で、カール・マルクスが喜んで引用する実例の多くにありそうな金―商品―金の町だ。湖畔の町かと思うてきてみると湖水は山 に上らなければ見えない、一里も遠方にある。湖水と町とを絶縁する山が、その昔高野山に逃げこんだ近江宰相豊臣秀次を困らしぬいた山だ。秀次は井戸をほっ たが、掘ってもほっても水が出ないので碧水を湛えている湖水をみながら『往生』したと言い伝えられている鶴翼山である。五里も向こうの山から見なければ鶴 らしい姿はしていないから町の人は八幡山という。そして歌人の外は美文めいた名をよぶものがない。
本願寺派の別院が二つ、黄壁に白線をいれて町の西南に堀深く、塀高く割拠している。山に登ると寺の棟が十八も目の下にみえる位、仏教熱心な町である。
何でも信長の安土城下の人々が落城のときに移住した町であると伝えられ、また近江源氏佐々木氏滅亡後その家臣達が士魂商才で、日本六十余州に近江屋と名 乗って近江泥棒と言われるほどに金儲けして廻った、その根拠地であるそうだ。
町は小京都とでもいうことのできる、碁盤面の縦横十字街で、雨がふっても泥のつかぬ蒲鉾道があって、日のてった時よりも雨の降ったときによい感じをあた えてくれる町である。即ち下水が雨の日は美しくなって、道をゆくとき都大路よりも気持ちがよい。
ヴォーリズさんと片目のコックさんは魚屋町の下通り東向きの暗い大きな家にすんだ。
採光の悪い六畳四室、十二畳一室の家で、中二階は鼠の住家で開けずの間になっていた。庭には二抱えもある松の大木が三四本石山の上にあり、後に土蔵二棟、前の空井戸は茶人めいて粗石の四つ井げたになっている。その前に竹の縁につづいて入り口二尺幅の便所がある。飛び石があって夜は気持ちのよくない庭だ。家主さんは喜六さんという盆栽好きの温順な方だ。お隣にすんでおられて、時々アメリカの人はストーヴの煙突穴を無闇にあけて雨漏りを作ってくれるから困ります、とその腰の低い善良な姿をあらわしてくれる。
座敷十二畳の天井や柱と欄間はキズだらけである。何でも喜六さんの先代が維新の時の勤皇家凝りで、井伊掃部に狙われて京都より落ちのびた志士をかくまった事があった。それとしった彦根藩士が大挙してこの暗い家をとり囲んだ。そして抜き身の槍と白刃をもって斬捨御免の捕縛に向かったものだそうだ。喜六さんの先代は志士を裏口から彦根の膝下多賀神社に落としてやって、同士の神主が神体の御厨子のなかにその人を隠し通したそうだ。
そんな騒ぎがあって四〇幾年もしてからヴォーリズさんは、槍や刀に斬りつかれた座敷十二畳を書斎兼食堂、兼寝室、兼応接室、兼柔道の稽古場及び薬局にしたのだ。前住の英語教師ワード君から、古い木框に鶏の囲いにでもしてよい赤鰯のように錆びた、金網がスプリングのかわりになっている、まん中の無闇にヅリ下がるベットと、二寸も厚い四角の板に四本足をつけたテーブル、グラグラ椅子、泥まみれの鍛通、ガラス製の安物ランプと薄汚れたストーヴをゆづりうけた。
暗い家にひとりで座りこんだヴォーリスさんは淋しかった、堪らなかったと追懐談を時々することがある。
『私は、金があったらすぐ帰るところでした。世間の手前も何もかまうことはない。失敗してにげ返ったといわれても甘んじて受けよう。極東の日本の片田舎にひとりで暮らすのはたまらない。ホーム・シックネスだ。しかし有難いことには其のとき金がなかった。私は借金してまで旅費をこしらえて出てきたのだから』と。
手荷物をいれたトランクは鉄道院の手違いから、八幡到着後三日も何処かにいって行方がしれなかった事もヴォーリズさんの打撃であった。
『私は小さい手カバン二つで、初めの三日を暮らしました。せめて荷ほどきでもして気を晴らしたいと思うても荷物はなし、学校の方は親切に三日の後より出勤してくださいと言うてくれるから出かけるわけはなし、する事もなく話す友もなく、淋しさにおわれて、聖書を手にし、祈祷をしたのです。そして、私の一生にかつて経験したことのないほど深く、神と交わりを結びました』
露西亜のクロポトキン公爵はペトロパウルスクの要塞監獄の独房に幽閉されたときつくづく感じたことを次のように手記している。
『墓場のように寂寞たる獄中の空気には遂にたえられなくなった。苦しさのあまり私は壁を叩いたり足で床を突いたりして他の独房から応える微かな音をきこうとしたが四辺は寂として更に応えがなかった。呼吸の音一つだってもれ聞こえなかった。一ヶ月すぎ二ヶ月すぎた・・・。
教育のある人でさえ一人無為に幽閉されていることが苦しいならば、四肢の労働にばかりなれて、読み書きもしらぬ農夫にとっては無限の苦痛である。だから私の下の独房の農夫は悲惨極まる状態に陥った・・・。
彼は最早心身ともに滅茶苦茶に乱れていた。私は彼の精神がしばらくの平安もなく動揺していることを知って驚いた。彼の頭はますます狂乱して刻一刻日一日とその理性がなくなり、遂に怖ろしい声と野獣のような叫びが、下の室から聞こえてきた、・・・人の精神が打ち壊されるのを見るのは戦慄すべきことであった・・・』
精神的修養のないものが絶対孤独になると、小人閑居して不善をなす以上にその身と心を破壊してしまう。しかしヴォーリズさんはこの孤独の時を神とともに暮らしてホーム・シックネスを追い出し、力の人となったのです。
以上が第二章「暗い住居」(『近江の兄弟』3~6頁より引用)である。ヴォーリズさんの異郷の地で旅装を解いた時の心細さが身に染みる。パウロは十分弱さ・また牢獄を経験した人だ。そのパウロの以下の証は有名である。
真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。(使徒16・25)
そのパウロは弟子テモテに次のように書き送り、励ました。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
吉田悦蔵氏はヴォーリズの神との交わりを記録し、力の人となったと結ばれた。一体ヴォーリズは聖書のどこを読んだのであろうか。しかし、このような箇所も読んだとするなら、想像するだけだが、楽しい。力を神様からいただいたヴォーリズ氏もまたわが「兄弟」である。
(写真はほぼ一年前に撮影した彦根藩主井伊家の下屋敷楽々園。解体修理の前で公開されていた。これは殿様の屋敷。ヴォーリズさんが十二畳に居所を構えたところは近江商人の屋敷というが、彼の来日四〇年前には吉田氏によると井伊家の家臣がその座敷に刀槍で乗り込んだということになる。)
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