2010年3月7日日曜日
ご結婚おめでとうございます
土曜、日曜と西軽井沢福音センターで行われた結婚式のための出席を兼ねて長野県の御代田に出かけた。金曜日は全国的に気温が上昇して信州もその影響下にあったが、夜からは気温が低下したようだ。ちょうどこちらを出かけるころは曇りであったが碓氷峠に差し掛かるころから濃霧に覆われた。
前日が天気が良かっただけに、急変する天気に内心びっくりさせられた。できれば結婚式は晴れやかな晴天の下でさせてあげたいなと思っていた。しかし、いざ終わってみると、そんなことはどうでもよいことに気づかされた。何よりも結婚されたお二人が主イエス様にあって結び合わされたことがはっきりしていた。それだけでなく、式に始まり、披露宴までが、すべて聖霊なる神様がご支配されるさわやかな結婚式であったからである。
私は二人の結婚式のお証をとおして次の聖書の箇所を示された。それは族長アブラハムが妻サラの死後、一人息子であるイサクのお嫁さん探しに、遠く離れた生まれ故郷まで、しもべを派遣する場面である。
しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。・・・(創世記24・10~12)
しもべは、一体だれが主人の大切な息子イサクの結婚相手がふさわしいか知らない。またたとえ見つかったとしても、どのようにしてその女性を説得して、その娘さんにとっては異郷の地である主人アブラハムの地まで連れて来ることができるのだろうか。その祈りが前出の記事である。
しかし、しもべのこの祈りは長い旅路の末、目的地に着き、まず件の娘さんに出会い、叶えられる。祈りは答えられたのだ。
そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(創世記24・26~27)
しもべははからずもアブラハムの兄弟ナホムの孫にあたる娘リベカを主君の息子であるイサクのお嫁さんとして探すことに成功したのであった。そしてこのリベカもまた果敢にも、まだ相手がどんな男であるかも知らずに、生けるまことの神様を信頼して、しもべと一緒に行をともにし、将来の夫君の下へと急ぐのであった。
イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。(創世記24・63~67)
お証を通して、結婚されるお二人のそれぞれが人生の辛酸をこれまで十分経験されてきたことがわかった。新郎は生まれられたご家庭の中で幼き時から翻弄されながらも、しっかりと人生を生きてこられた。しかも何年か前、最愛のお母さんを亡くされ今や孤独の身であった。一方、新婦は恵まれた家庭に育たれたが、帰国子女として悩まれた。真剣に生きてきたつもりの人生も、のちに勝手気ままなる自らの人生の歩みと断ぜざるを得なかった。そのような彷徨の生活で傷つきながら、真の愛を求めておられた。そして主イエス様の救いにあずかられたのであった。全く環境の異なるお二人がもし主がおられなければ決して一つには結び合わされることはありえなかった。ここまで思い至ったとき前出の聖書の場面を思い出したのであった。
新郎はその証の中で「私は新婦を通して、いのちのパンを食べることを知りました。Mさんは私よりすでにたくさんこのパンを食べておられ、私よりはるかに聖霊に満ちあふれる生活を経験されていますが、これからは二人してこのいのちのパンを一緒に食べられますので感謝です。そしてだれよりもまだそのパンを食べる喜びにあずかっておられない方々にイエス様をご紹介したいです」という意味のことを言われた。
多くの方がこのお二人の結婚のために祈られ奉仕された。(私も新婦が家内の高校時代の親友の娘さんであったこともあり、祈らせていただいていた。)しかし主の祝福は二人だけでなく、招待されたご友人方130名余の方をふくめ当日集ったすべての人々に及んだ。
今朝は土曜日の結婚式当日とまた打って変わり、長野県御代田地方は朝から雪だった。一夜にして顕われた白銀の世界に私は再び目を見張らされた。
たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。(イザヤ1・18)
(写真は今朝の西軽井沢福音センターの車寄せの景色。「白雪の ヴェールなりき 主の愛」「二人して 雪忘れまじ 結び合い」)
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