2010年3月12日金曜日
寿ぐ人へのお礼
過日、親しい方の結婚式に招待されたことはすでにお話したとおりである。結婚式では結婚式のメッセージ、結婚する二人の証(どうしてイエス様を信じたか、またどうして結婚に導かれたかの話)が中心であるが、最後に親族代表の挨拶というのがある。親の立場からお礼を言うものだ。
過日の親族代表の挨拶は大胆なものであったが、その方の真情が吐露されていて大変感銘深いものであった。何しろ結婚式の締めくくりの挨拶で、その方が最近経験された妻を亡くされた方の葬儀の話をされたからである。結婚する二人、また圧倒的多数のお祝い客を前にその方は「死が終わりではない」夫婦のあり方を話されたからである。その方は私の出身高校の後輩になる方であった。もう一度拝聴したい思いでいる。さて、以下に掲げるのは、その時の挨拶ではなく、別のある人の親族代表の挨拶である。
大変遅くまで披露茶話会におつきあい下さって心から御礼申し上げます。
二人の証を聞いている中で、恐らくMさんのお父様のK様またお母様のC様も小さいころのMちゃんがいつの間にか大きくなり、こうして一人の男子のところにとつぐ決心にいたったことを皆さんの前で話し、その上イエス様ご自身の愛をはっきり証しておられることを見てさぞかし感無量でなかろうかと思います。
私自身もあのNが今こうして結婚するんだと思うと本当に感慨深いものがございます。Nと私の関係は決してよくありませんでした。お互いに感情に任せ取っ組み合いの喧嘩をし、なぐりなぐられ(5人も子供が与えられるとそれぞれ思い出がありますが・・・)たこともあり、本当にNとはお互いに傷をつけあった間柄であります。けれどもただ一人、というよりも主なる神様、イエス様が私たち二人の間に入ってくださり、私たちに真の和解と平和を与えてくださいました。それからは私は安心して彼のことを見られるようになりました。
けれども今回の結婚式についてはすでに三人目なのですが、前回、前々回とはまた違った意味で準備の点で大いに試みられました。二人の間に何かがあったということではないのです。準備の過程で「暴風雨」が吹き荒れた思いをしました。現在、世界経済・日本経済ともに大変な状況にあり、企業の責任を負っておられる方々にとり、その環境はやはり一種の「暴風雨」というべきものではないでしょうか。限られた準備の中で不意に訪れた想定外の出来事は短期間でしたが私たちを不安に陥れました。何よりも結婚式の当事者の二人がこのことにつまずかないようにと祈るばかりでした。
しかし、主は勝利してくださいました。今日の結婚式がその答えであります。誰の勝利でもない。主イエス様が嘉(よみ)してくださったとしか言いようがありません。もし私たちが完全であり、私たちの努力が成功を収めたのなら、私たちが有頂天になるだけです。しかし私たちは駄目でしたが、それがこのように祝福されたとなるとそれは主イエス様のお陰としか言えないのであります。今となっては、暴風雨と思われたことも、それを通して私たち自身の思いが練り清められるのが目的だったとはっきり言えます。
そしてこの二人の結婚のためには何よりも多くの方がお祈りし、具体的に犠牲を払って様々な準備をしてくださいました。また二人を祝福するために祝日にもかかわらず、遠方からわざわざ駆けつけてくださいました。二人にとって何と心強い支援であったことでしょうか。二人はそのことを決して忘れないでしょう。改めて厚く御礼を申し上げます。
だから、今回の結婚式もまた私は次のみことばを体験させていただいたと言いたいです。
主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。(箴言10・22)
明日はクリスマス・イヴであります。
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(2コリント8・9)
と、聖書は語っています。イエス様は私たち一人一人を愛して十字架にかかってくださいました。神であられるイエス様が人となって来てくださるだけでなく、挙句の果てには私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださったのです。クリスマスはそのことの始まりであります。私たちは生まれながら自己中心の性質を持っております。それが罪です。けれどもこのイエス様の十字架の愛を見上げるときに、お互いが「自己中心」の思いから解放され、許しあうことができるのであります。そして許しあうだけでなく、もっともっとイエス様に仕えたいという思いが与えられるのではないでしょうか。今日二人はそのことを証してくれたのではないでしょうか。
私はこれからが本番である結婚生活という実生活の中で二人が主の力を借りてそのことが日々できるように(結婚式の誓約のことばにあったように)祈りたいですし、皆様にも引き続いてお祈りいただきたいと思います。二人が生活するパリの生活は決して楽なものでないでしょう。確かにパリと言うと私たちは華やかさをイメージしますし、様々な芸術文化を持ち、洗練された面だけを見ています。しかし、私は、福音に根ざさない文化が、いかに空しいかまた結局は滅びるものでしかないことを、聖書を通して教えられてきました。どうか、この二人がパリの生活に流されることなく、しっかりと福音に根ざした歩みができますようにお祈りいただきたいと思います。
また最後に二人に希望します。日本にいる今日列席してくださった方を始めとして、お世話になった方々、多くの友人、それぞれの両親、兄弟たちのために忘れずに祈っていただきたいということであります。どうも変な形のお礼になりました。皆様から多くの祝福をいただいたことを心から感謝いたします。
(写真はパリのオデオン座の天蓋。「三月の この日忘れじ 鉄槌を 神より受けし 往年の雪」「今頃は パリに着けるか 花嫁の 神より受けし 祝福なり」)
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