「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ15:10)
ぶどうの木と枝の性質が非常によく似ており、したがって、目的もよく似ていることは前にも一度ならず述べたところである。しかしここでキリストは、もはや譬で語ることをやめ、キリストご自身の生涯が私たちの生涯の的確な模範であることを明快に語られるのである。キリストはただ服従によってのみ私たちがその愛にとどまることができると言われた。キリストのいのちと力と喜びは父の愛の中にあり、ただ服従によってのみ、その中にとどまられたのである。私たちのいのちと力と喜びは常にキリストの愛の中にあり、キリストと同じようにただ服従によってのみ、その中にとどまることができるのである。ぶどうの木であるキリストは服従によって農夫である父に栄光をささげられた。同じように枝であるクリスチャンは、ぶどうの木であるキリストに栄光をささげるべきである。
戒めを守り愛にとどまることが、キリストの生涯の法則であったのと同じように、私たちの生涯の法則でもある。私たちがあらゆる点でキリストに似るように、神はキリストを私たちと同じ人としてこの世にお遣わしになった。キリストが歩まれたのと同じ道を私たちも歩むために、キリストは道をお開きになったのである。キリストは私たちの人間性について説き、私たちに人間の第一の義務である服従が、神の恩恵にとどまり、神の栄光に入るただ一つの道であることをお教えになった。そして今、キリストが父の戒めを守り、その愛にとどまられたように、私たちにもキリストの戒めを守るように教導され、私たちを力づけられるのだ。
服従と内住の関係、神の戒めと神の愛との関係は、天の調和であることはだれにでもすぐにわかる。神のみこころこそ神の完全性の中心である。神に似て人が成長するように道が開かれていることが、神の戒めの中に明らかにされている。神のみこころを受け入れ、実行することによって私たちは神と交わりに入れられるのである。み子がこの世に来られた時、「見よ、わたしは御旨を行なうためにまいりました」(ヘブル10:9)と言われたのはそのためである。これが人の地位であったし、また祝福でもあったはずである。しかし人はアダムとエバの堕落によってこの地位と祝福を失い、キリストがこれを回復するために来られたのである。ぶどうの木としてキリストが私たちにこれを分け与え、キリストが父の戒めを守り、その愛にとどまられたように、私たちはキリストの戒めを守り、その愛にとどまるようにと求めておられるのだ。
枝はぶどうの木と全く同じいのちを持たない限り実を結ぶことはできない。私たちのいのちはキリストのいのちそのものである。これはキリストご自身がそのいのちを分け与えられるからである。「あなたがたがわたしと同じように」とぶどうの木が言うのは、同一の律法(おきて)に従い、同一の実を結ぶことを指しているのである。父なる神にとどまる秘訣としての主の服従の教えを、私たちは主から学び取りたいものだ。この単純ではあるが、絶対的な服従があまりにも小さい地位しか占めていなかったことを、私たちは率直に告白しようではないか。私たちがまだキリストに服従しなかった時、キリストは敵である私たちのために十字架の死を遂げられたのである。キリストは私たちをその愛の中に取り上げ、私たちは今キリストの中にいるのである。私たちが喜びと愛とをもって服従するならば、キリストは私たちをその愛の中にとどまらせてくださるのである。
祈り
「『服従によって愛にとどまりなさい』とあなたは言われます。み恵みに満たされた私のぶどうの木である主よ。あなたは枝にあなたのいのちを分け与え、また枝にあなたの姿を分け与えられます。このために私はあなたに似ることができます。あなたが服従をとおして父の愛の中に、あなたのいのちをとどめられたように、私のいのちをあなたの中にとどめてください。救い主よ。服従があなたと私の間をほんとうに固く結ぶことができるように、私をお助けください。アーメン」。
(文章はすべて『まことのぶどうの木』安部赳夫訳より引用。写真はちょうど一月前、8月末に滋賀県の湖北余呉湖を北陸線車窓から撮影したもの。あの暑苦しい夏が、うそのような今日この頃である。夏ボケに終始したブログもそろそろ再開にこぎつけられそう。でもまだまだエンジンは回転しそうにない・・・)
0 件のコメント:
コメントを投稿