2010年9月29日水曜日

説教者に問われるもの(上)


私は、ここ5年間ほど年に一回、9月始めの土曜・日曜と広島に行くことにしている。そこでは「喜びの集い」が開かれ、大学の先輩がわざわざ出向いてくださるからである。先輩は浪人時代に教会に行ったことがあると言われる。でもそれは遠い昔のごく短い期間のことであって、それが先輩の生き様とはならなかった。そのような先輩が時間を割いて私に会うために来て下さる。ここ二三年それでも不思議なもので私以外にも何人かの方とお知りあいになられるようになった。

その先輩が私に先ごろ貴重なお便りをメールで寄越してくださった。「感動を与えるお話というのは、 説教ではなくて、具体的な事実(喜び悲しみ苦境の頂上かどん底立ち直れたとか)に基づきそれが神の助けであるとかを実感したということを伝えて初めて、聴衆の感動を呼ぶと思うのです。」とあった。私はこの先輩のお便りを嬉しく拝見した。少しそれに関連するE・M・バウンズの話を連載する。


あらゆる生活面において聖潔を学べ。あなたがたが主に用いられるか否かは、一にこのことにかかっている。なぜなら、あなたがたの説教は一、二時間で終わるであろうが、あなたがたの生活は全週間を通じて説教しているからである。もしサタンが、名誉、快楽、美食を愛好するむさぼり深い伝道者を造るのに成功したとすれば、彼はすでにその働きを破壊し得たことになる。みずからを祈りのうちにゆだね、題句と思想と言葉とを神から得られよ。ルーテルはその最上の三時間を祈りに費やしたのである。―― ロバート・マーレー・マックシェーン

私どもは常に教会を進歩させ、あるいは福音の地盤を拡げ、またこれを力のあるものにするために、新しい方法や計画、あるいは新しい組織を作りだすことに力を尽くしております。しかし、現代におけるこのような傾向は、人の価値を見失わせたり、あるいは計画とか組織の中に人を葬ってしまうという恐れがあります。元来、神の計画は、何ものよりもはるかにまさって人を用いようとするところにあります。実に人は神の方法であります。

教会はひたすら、更にすぐれた方法を求めていますが、神はすぐれた人を求めておられるのです。「ここに神の遣わしたまえるヨハネと言える人あり。」キリストの来臨を予告して、彼のために道を備えることは、一に彼ヨハネという人にかかっておりました。「ひとりの嬰児われらのために生まれたり、我らはひとりの子をあたえられたり。」この世の救いはあの馬ぶねの中に臥しておられた御子から出てくるのです。パウロが、後になってこの世界に福音の根を下ろさせた人々に対して、まず個人的性格を強調したことは、やがて彼らの成功を語る理由となったのであります。

福音の光栄と効果がどうであるかは、これを述べ伝える人にかかっています。神が「全世界を遍く見そなわし、己に向かいて心を全うする者のために、力を顕わす」と言われたのは、神はこの世にご自身の力を注がれるにあたっての管となる人を要求され、またこれによりたのまれるという意味です。けれども、機械的に堕してしまった今の世は、この実に緊要な真理を忘れがちです。しかしこれを忘却することは、ちょうど大空から太陽を取り去ってしまうように、神のみわざの上に禍いをもたらす結果になり、暗黒、混沌、ならびに死がそれに伴うのです。

今日教会に必要なものは、より多い、よりよい手段ではなく、また新しい組織や、より多くの新奇な方法でもなく、ただ聖霊が用いられることのできる人であります。それはすなわち、祈りの人、祈りにおいて力のある人です。聖霊は方法を通してではなく、ただ人を通してのみあふれられます。聖霊は各種の手段の上にではなく、人に臨まれるのです。また聖霊は計画にではなく、ただ人に、すなわち祈りの人に膏(あぶら)を注がれるのであります。

ある有名な歴史家の言葉に「およそ一国の革命において、個人の力がそれに及ぼす影響というものは、歴史家なり、あるいは政治家が認めているところよりも更に大きいものである」とあります。この真理はキリストの福音にそのままあてはまります。世界を教化し、国民と個人とを変化させるものは、実にキリストの弟子である者の品性と行為であります。ことに福音の説教者にとっては、これは著しい真理です。説教者は福音の運命をゆだねられているように、またその資格もゆだねられているのです。彼らは人に対する神の使命を果たすか、そうでなければこれをそこなうかであります。説教者は神の膏(あぶら)が流れるための黄金の管なのです。しかしこの管は黄金であるというだけでは用をなしません。それは膏(あぶら)が滞りなく、かつ漏れることなく、満々と流れあふれることのできるように、絶えず口を開いていて、しかも同時に亀裂の入っていないものでなければなりません。

(文章は『祈りによる力』E・M・バウンズ著葛原定市訳より引用。題名は引用者が勝手につけています。写真の花は一週間前から玄関に咲いている花。花名はわからない。)

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