枯葉敷き 山茶花の笑み 寒空へ |
主はここで、兄弟に対する私たちの愛のルールについて語られている。兄弟に対する私たちの関係は、主の私たちに対する関係と同じである。主のことば、主の行ないのすべては、そのまま私たちの法則である。一度ならず言ったように、ぶどうの木と枝とは全く同じ性質のものである。
しかし、「主が父の戒めを守り、私たちを愛されたように、私たちも主の戒めを守り、兄弟を愛すること」を、もし私たちの力だけで実行しようとしたり、ぶどうの木と枝との真理を十分に理解することなしに実行しようとしたりするならば、それはまちがいなく失敗するであろう。しかしもし私たちが「わたしがあなたがたを愛したように」というみことばが、譬ばなしの中の最大の教訓であり、ぶどうの木が枝に絶えず話しかけることばであることを理解するならば、それはもはや私たちがやり遂げることができるかどうかの問題ではなく、キリストが私たちの中でみわざをなすことができるかどうかの問題であることがわかるはずである。
これらの高く聖なる戒め、つまり「わたしが従ったように従い、わたしが愛したように愛せよ」との主のことばは、私たちの無力であることを自覚させ、また、それをとおして、ぶどうの木の中で、私たちに与えられるものがいかに大切で、豊かで、また麗しいものであるかを初めて自覚させるのである。
ぶどうの木が枝にひと時も絶えることなく、「わたしのしたように、いいですか、わたしのしたようにしなさい。わたしのいのちはあなたがたのいのちです。あなたがたはわたしの満ち満ちた分け前を持っています。聖霊はあなたがたの中にあり、『あなたから来る実は、わたしの中にある実と同じものです』と言います。だから恐れることなく、あなたがたはわたしのように生きることができるという天の保証を、あなたの信仰によってつかみ取りなさい」と語りかける声が、今確かに聞こえて来るではないか。
しかし、もしこれがほんとうに譬ばなしの意味するところであるならば、もしこれがほんとうに枝が生きるいのちであるならば、どうしてごくわずかな人々しかこれを実現することができないのであろうか。それは私たちがぶどうの木の天の奥義を知らないからである。私たちは譬ばなしとその麗しい教えをよく知っているはずである。にもかかわらずキリストが全能で、しかも私たちに身近な存在であることを示す奥義をよく知っていないということだ。それは聖霊が私たちに啓示するのを私たちが待ち望まなかったからである。
もし私たちがこの奥義を学びたいと思ったら、どのようにすればよいのであろうか。私たちは今までぶどうの木であるキリストの、人を生き返らせて別人のようにする力を全く知らなかったのであるから、私たちはこれから完全に新しい人生に入らなければならないという告白から始めようではないか。自我から生じるすべてのものからきよめられ、この世にあるすべてのものから聖別され、キリストが父の栄光のたまに生きられたように、私たちもただそれにのみ生きることから始めようではないか。そして次には、「わたしがしたように」というみことばを、キリストがいつでも実現され、ぶどうの木を心から信頼している枝のいのちを守り続けてくださるに違いないという信仰をもって、この奥義を学び始めたいものである。
祈り
「『わたしがしたように』というみことばをあなたはお教えになりました。聖なる主よ。ぶどうの木とその枝として、あなたと私とは同じいのち、同じ心、同じ服従、同じ喜び、同じ愛を持っています。主イエスよ。あなたが私のぶどうの木であり、私が枝であるという信仰によって、私はあなたのご命令を約束として受け入れます。そして『わたしと同じように』というみことばを、あなたが私の中で行なわれるみわざの理解しやすい啓示と考えます。そうです、主よ。あなたが愛されたように私は愛します。アーメン」。
(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳113~117頁より引用)
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