(山茶花の 白き花びら 寒乗せて) |
信者の間の分裂はよくないことで、多くの苦難の原因となります。ただ聖なる者の分裂を嘆くだけ、というのはまちがった考えです。パウロはコリントの教会の分派抗争のために苦しんできました。しかし彼は、分派の中によい点のあること、祝福さえも認めています。それは、正しい者の真価が明らかにされることです。分裂の全くないところでは、真実でないものも真実のものも容易に見わけがつきません。
私たちの分裂において、やむをえないことは何でしょうか。それは真実のものがその真価を表わすことです。それはいつも、うろうろするのではなく、落ち着いた確固とした歩みによって目だつ人なのです。彼らは人間によりすがることをせず、人間のあとを追いかけません。何千もの人が人間の旗のもとに熱狂するときにも、彼らはただキリストの旗のもとにとどまります。世の中には、「私のところに来なさい」という道しるべのようなキリスト者がいます。しかし、真実の兄弟の道しるべには、「主のところへ行きなさい」としるされているのです。
パウロは「分派が起こるのもやむをえない」と言っています。それによって、真実な少数者は、いよいよ密接に主と一体となることができるのです。パウロのこのことばは、今の時代に、何という光と慰めをもたらすものでしょうか。
船長の有能さはあらしの時に初めてわかります。将軍の腕は、あぶない戦いの困難な情況のもとで初めて知られるのです。同じように、聖徒の集まりである教会が、苦難と無秩序の中に置かれたとき、初めてキリストにあって練達した人が認められるのです。彼らは、落ち着いて、真実に、確固とした小羊である主に従っているのです。
当時コリントの教会には、愛餐のとき、自分だけたらふく食べて、ほかの人を顧みない人たちがいました。また、パウロ、ペテロ、アポロといった人々を党派の頭に押し立てようとした人々がいました(1コリント1:12、3:4)。こうした人が、すべて正しい人ではありませんでした。こうした人は、パウロが練達の人と呼んだアペレのようなキリスト者ではありませんでした※。口先だけでなく、ことばと行ないにおいて、いや全存在をもって「ただイエスだけ、ただイエスご自身だけ、ただイエスに従って」という生活をして行くこと、それこそ正しいもので、練達を生ずるものです。
分裂というような好ましくないことでさえ、「イエスのもとにとどまりなさい。自分の力、自分の栄誉と願いを断ち切りましょう」という教訓を与えるものなのです。私たちはこの教訓を聞きたいものです。それは私たちの祝福となります。人間は分裂を起こしますが、分裂の中に主は正しい者の真価を表わされるのです。分派もまた祝福ではないでしょうか。
(『上よりの光』アルフレート・クリストリープ著138~139頁より引用。※キリストにあって練達したアペレによろしくローマ16:10。政治は人間同志の権力闘争である。民主党の「小沢問題」は白日の下にそれをさらけ出している。しかし、「旧新約聖書にある宝」という副題を持つこの書は、主イエス・キリストにある上よりの光を指し示してやまない。)
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