(「画伝 イエス キリスト」 和田三造絵より 昭和25年作) |
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなり、(ヘブル5:7~9)
わたしたちは人です。わたしたちにとっては服従は簡単です。わたしたちはへりくだる限り、服従することができます。しかし、主が服従することは簡単なことではありません。主の服従は、主が天と地を創造することよりもっと困難です。服従するためには、主は栄光や、力や、地位や、主の神性の中のかたちなどのすべてから、ご自身をむなしくしなければなりませんでした。彼はまた奴隷の形を取らなければなりませんでした。そうしてはじめて、彼は服従の資格を受けることができました。こういうわけで、服従は神の御子によって創造されたものです。
もともと、御父と御子は同じ栄光を分かち合っておられました。主が地に下って来られた時、一方において主は権威を捨てられました。そして他方において、主は服従を取り上げました。彼は奴隷となることを心に定め、人として時間と空間に制限されるようになりました。しかし、これで全部ではありません。主は自らへりくだって従順になられました。神たる方における従順は、全宇宙の中で最も驚くべきことです。主は死にまでも、十字架の死に至るまでも、苦痛と恥辱の死に至るまでも従順でした。ついに、神は主を最高にまで高くされました。自らへりくだる者は、高くされます。これが神の原則です。
元来、神たる方には服従の必要はありませんでした。しかし主が服従を創造されたため、御父は神たる方の中でキリストにとってかしらとなりました。権威と服従はいずれも神によって立てられました。それらは始めからありました。こういうわけで、主を知っている者は自然に服従します。神もキリストも知らない人たちは権威が何であり、服従が何であるかを知ることはないでしょう。キリストには、服従の原則があります。服従を受け入れる人たちは、キリストの原則を受け入れているのです。ですからキリストで満たされている人たちは、服従で満たされるでしょう。
今日、多くの人が言います、「なぜわたしはあなたに服従しなければならないのですか?」。彼らはまた次のようにも問います、「わたしは一兄弟であり、あなたも一兄弟です。それでは、なぜわたしがあなたに服従しなければならないのですか?」。実は、人はそのようなことを言う権利を持っていません。ただ主だけがこれを言う資格がありました。しかし、主は決してそのようなことを言われませんでした。主にはそのような思想さえありませんでした。キリストは服従を、全き服従をさえ代表します。それはちょうど神の権威が全き権威であるようにです。今日、ある人は自分は権威を知っていると考えます。しかし、彼らは服従を知りません。わたしたちはそのような人々については、神のあわれみを求めることができるだけです。
ヘブル人への手紙第五章八節は、主は苦難を通して従順を学ばれたと告げます。苦難は主に従順をもたらしました。真の服従は、苦難にもかかわらず、依然として従順がある時に見いだされます。一人の人の有用さは、彼が苦しんだか否かにあるのではなく、苦難の中で従順を学んだかどうかにあります。神に従順である者だけが有用です。もし心が柔らかにされていないなら、苦難は去らないでしょう。わたしたちの道は、多種多様な苦難の道です。安逸と享楽を渇望する人は役に立ちません。わたしたちはすべて、苦難の中で従順であることを学ばなければなりません。主が地に来られたとき、従順を携えてこられたのではありません。正確に言うならば、主は従順を苦難を通して学ばれたのです。
救いは喜びをもたらすだけではありません。それはまた服従ももたらします。もし人が喜びだけを求めているなら、彼の経験は豊富にならないでしょう。服従する人たちだけが、救いの豊満を経験するでしょう。さもないと、わたしたちは救いの性質を変えます。わたしたちは主が服従されたように、服従する必要があります。主は従順を通してわたしたちの救いの源となりました。わたしたちが神のみこころに服従することを望んで、神はわたしたちを救われました。人が神の権威に出会う時、服従は単純なことであるでしょう。そして神のみこころを知ることも単純なことであるでしょう。なぜなら、生涯を通して服従しておられた主が、主の服従の命をすでにわたしたちに与えられたからです。
(『権威と服従』ウオッチマン・ニー著の「第五章 御子の服従」より抜粋引用。みことばは引用者による。)
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