(初冬の琵琶湖、奥に見える島は沖島?09.12.6) |
大状況である国家が新生国家よろしく帝国主義国家形成を目指しているとき、ようやく個人と家制度の相克が明らかになり、自然主義文学が澎湃と姿を現わしてきているようだ。田山花袋の『布団』がこの年の作品である。一方夏目漱石は大学を辞し、朝日新聞に入社、新聞小説として『虞美人草』の連載が始まっている。ヴォーリズさんは田舎の近江の地で苦戦中である。当時のキリスト者が生きる上での風当たりはどんなであったろうか、と想像を逞しうするのだが、わからない。
手元の内村鑑三全集の15巻はちょうどその年に当たる。紐解くと、彼の父が4月に亡くなっていることがわかる。内村の二つの文を抜粋引用する。(引用は同全集59~61頁より)
父死して感あり
肉の父は逝けり、されども霊の父は残れり、地上の父は去れり、されども天に在す父は存せり、小なる父は我を離れたり、されども大なる父は我に近し、我は我が父を失いてこの世にありてなお孤児(みなしご)ならず、天に在す我らの父よと、しかり、我は父を失いて父を失わず、天に在(いま)す我が父は存す、而して我が失いし地に在りし父もまた天に在す父に在りて存す、天に在すわが父を失わざる我は地に在りし我が父を永久に失わず、我は我が父を失いて泣く、然れども我は希望なき他の人の如くに嘆かず、そは我らイエスの死にてよみがえりしことを信ずるが故にイエスによれるところのすでに眠れる者を神、彼とともに携え来たらんことを信ずればなり。テサロニケ前書四章十三、十四節
悲痛の極
人の死するは悲し、されども品性の堕落するが如くに悲しからず、品性の堕落は霊魂の死なり、これに復活の希望あるなし、これ永遠の死なり、嘆じてもなお余りあるは実にこのことなり。
預言者エレミヤ曰く
死者のために泣くことなかれ、これがために嘆くことなかれ、むしろ捕え移されし者のためにいたく 嘆くべし、彼は再び帰りてその故里を見ざるべければなり(エレミヤ二十二章十節)
と、悪魔にとらえられ、その社会に移されて再び帰りて父の故里を見る能わざる者の如くに悲しむべくして痛むべき者はあらず、我は我が首を水となし、我が目を涙の泉としてかかる者のために泣かんと欲す。同九章一節
国家いかにあろうともキリスト者の闘いが100年前も100年後の今も変わらざることを思う。
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