2010年12月11日土曜日

幼いこどもたちのいるところ D.L.ムーディー

(朝日を受けて リーガルベコニア)
シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた

シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた

風 風 吹くな  シャボン玉 飛ばそ

有名な歌だ。先ごろ先輩から年賀の挨拶を遠慮する便りをいただいた。その冒頭にこの歌詞が書かれてあった。。生まれてほどないお孫さんを亡くされたということである。生後間もない赤ちゃんを亡くす遺族の悲しみはどれほどであろうか。聖書は何と語っているか、以下に記すのはムーディーが私たちに伝える話である。

ある時、私は一人の病弱の子どものことを聞いたことがありました。その母親が重い病気にかかって、安静を要したものですから、その子どもを母親の邪魔にならぬようにというので、ある友人の家にしばらく預けたことがありました。母親は次第に病勢が悪化して、ついに死にました。その時、父親は、

「私は子どもにこの出来事で心配させたくありません、あの子はまだ年がゆかないのだから母親のことは憶えていないでしょう。だからこの葬式が終わるまで呼び戻さないで置きましょう」と言いました。

それから数日たって、子どもは我が家に連れ帰られました。けれども誰も母親のことは話しません、またどんなことが起こったかということも知らせませんでした。ところが子どもは家に帰って来ると直に一室に走り込み、次には他の部屋に、それから客間に、次には食堂へ行きという具合で、最後には母がいつも独りで祈っておられた小さい部屋に入りました。

「母さま、どこ? 母さま!」と精一杯声を張り上げて呼び求めました。

そこで家の人たちも仕方がなくて、出来事を子どもに話してきかせました。すると、一層悲しげに声を張り上げて、

「あっちに連れて行って! 連れて行って! 母さまのいないところにいたくない」と言って泣いたということであります。

そこを家庭にしてくれていたのは母でありました。そしてそれは天国においても同様であります。天国に私たちの心が引かれるのは白い衣があるということでも、金の冠があるということでも、金の竪琴があるということでもなくて、そこには私たちが互いに出会うことのできる愛する人々がいるということであります。

それではそこには誰がいますか。私たちがそこに行く時にどんな仲間が得られるでしょうか。先ず第一に天の父がそこにおられます。イエスがそこにおられます。聖霊がそこにおられます。すなわち私たちの父、私たちの長兄、私たちの慰め主がそこにおられるのです。

そのほかに誰がそこにいますか。
天使がそこにいます。
死に別れた親しい友がそこにいます。

そして小さい者たちも。ああ彼らはそこにいるのです。私は子どもたちを思い出すことをしないで天国のことを語ることが出来ません。次の聖書を読んでください。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)

「彼らの天の御使い」! それはどんなことを意味するのでしょう? 私たち一人一人が、私たちの行く所、どこにでも特別に私たちを見守るように命ぜられている天使を持っているというのでありましょうか。私たち一人一人に付き添い、私たちを守護してくれる天使があるというのでしょう。

そうしたすべての者が天にいるのです。私たちはそこで彼らに会うことを待っています。永遠に誉むべき三位一体の神すなわち父なる神、子なる神および聖霊なる神もそこにいまし給います。聖なる天の使いたちもそこにいます。旧約時代の偉大なる聖徒たちもそこにいます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨブ、ダビデ、その他前時代のすべての聖徒たちに私たちはそこで会うことが出来るのです。十二使徒や主のすべての弟子たち、古のすべての殉教者たち、世の始めからして主を愛し奉ったすべての人たち、すべての新約時代の聖徒たちとも会うことが出来ます。

そうした人たちがヘブル書第12章22節から24節までに総合的に書きしるされて「あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」とあります。

(『天国とそこへ行く方法』D.L.ムーディー著11~13頁より引用、題名は引用者がつけた仮題)

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