(山茶花の つぼみほころぶ 冬支度 ) |
それはこの上なくはっきりとした夢でしたので、コンラドは朝早く起き、店を掃除し、輝くばかりにみがき上げました。それから食物を買いに出かけ、いろいろ計画を立てました。主が来られたら、主の御足を洗い、くぎあとのある御手に口づけし、それからいっしょに食事をしようと思っていたのです。
彼は心をときめかしながら待っていました。戸を開く音が聞こえると、さっそく飛び出して客を迎えました。しかし、それはひとりのこじきだったのです。コンラドはこじきに一足のくつを与えて送り出しました。
しばらくすると一人の老婆がやって来ました。彼女は寄る年波に腰が曲がり、重いたきぎの束を背負っていました。コンラドは老婆を休ませ、いくらかの食物を与えました。コンラドは一日中待っていました。
午後おそくなって、ひとりの女の子が激しく泣きながらはいって来ました。その子はまい子になったのです。コンラドは女の子の涙をぬぐってやり、その母親のところに連れて行きました。
けれども、主は姿をお見せにならなかったのです。それでコンラドは打ち沈み、小さな店の中ですすり泣いていました。
静けさの中で、彼は一つの声を聞いた。
「元気を出すのだ。私は約束を守った。
私は三度あなたの戸口を訪れた。
三度あなたの店の床に私の影を映した。
私は傷ついた足のこじきだった。
あなたが食物を与えた老婆だった。
街頭をさまよう まい子だった」。
(引用文は『一握りの穂』L.B.カウマン著松代幸太郎訳83頁からである。この話は『靴屋のマルチン』というトルストイの作品として有名だとばかり思っていたが、アメリカのエドウィン・マーカムの『幸福のくつ』という作品の中にも出てくることを知った。これらの話は言うまでもなくイエス様のおことば「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」マタイ25:40にちなんでいる。作者エドウィン・マーカムという人がどういう人なのかわからないが、私にはトルストイよりこの人の方がイエス様の十字架の贖いをはっきり受け入れた信仰者のように思えてならない。読者諸氏はどう判断されるだろうか。ちなみに原文は下記のサイト。
http://www.archive.org/stream/shoeshappines00markrich#page/n7/mode/2up))
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