集まりの話が終わったあとに、お話をうかがうと旧約聖書もくわしい。もともと中学生の頃、万博で一冊の新約聖書を手にされたのがきっかけだそうである。その後、高校、専門学校と進んでも聖書に対する関心は尽きず今日に至っているということであった。旧約時代の話も要点をつかんで話してくださる。旧約の神様は厳しくって恐ろしいですね、一点のミスも許さない絶対服従の神様ですよね、とおっしゃった。そのおりの聖書の話は旧約聖書の士師記だったので、その方がそのようにまとめてくださることを自分でも反芻せざるをえなかった。
私にとっては旧約も新約も区別なくともに主なる神様のみこころを自由に受けとめるのでいつもそんなことは意識しないのだが、言われてみるとそうなのかなと思った。それに対してその方は新約聖書のイエス様が可哀想だと言われた。悲しくさえなって来ると言われた。迫害され、人々に悪く言われて、と。その方は信仰を持っておられない、と聞いた。旧約聖書をはじめ多くの聖書知識を持っておられるこのAさんが信仰を持たれば、どんなに素晴らしいことかと口にも出したし、今もそう思う。
矢内原忠雄と言えば、私の高校時代にずっと東大の総長だった人で、この人の本は高校の図書館に随分あった。手にしてたくさん読んだつもりだが、イエス・キリストのことはほとんど頭に残っていない。というのはこの方は有名な無教会のクリスチャンであったからである。その後、私自身がキリストを信じた。そして後年、彼の戦中・戦後と書き残していった「嘉信」という雑誌も、高いお金を払って手にしたが、ほとんど読まず、人手に渡してしまった。何となく教養主義的なところが性に合わないのかもしれない。
けれどもその彼が言ったとかいうことば、「望遠鏡を使わなければ天体は観測できない。それと同じように、罪を通してでなければ神様は知ることができない」ということばは名言であると今でも思う。Aさんはイエス様の死んでいったことが可哀想だと言われる。でもイエス様が十字架にかかってくださらなければ、私たちの罪の赦しはない、また父なる神様は御子イエス様を十字架にかけねばならないほど、私たちの罪は重いということを心から受けとめてくださるといいのにと思って帰って来た。
もちろん、このことは頭で知るだけでなしに、心全体で受け入れることだし、それは人が話したから納得するものでもなく、聖霊なる神様がAさんに直接働きかけてくださり、知られることだと思った。それにしてもAさんが次のように言われたことは印象的であった。
聖書は「心の中で情欲をもって女を見たら、それでも姦淫と同じ」だと言うのですね。こんなことを言うのは世界広しと言えども聖書だけですよ。仏教なんかいい加減ですよ。だれでもやっていることだと言って歯牙にもかけないじゃないですか。もっともアメリカだってどうかと思いますよ、同性愛者同士の結婚を認めるなんて言っているから。これなんか聖書からすれば明らかに逸脱していますからね。
この方が聖書をそのようなものとして受けとめられ、それに従って自らの結婚生活を大切にしていることを話してくださった。聖書はこの方のうちに生きて働いている。ますますこの方が好きになった。
神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(新約聖書 1コリント12:3)
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