2024年12月4日水曜日

思い新たなり、師走のひととき

 12月に入って、のどかな日が続いています。ありがたいことです。これがいつまで続くのやら、いずれ寒い日々が来るかと思うと、今のうちにこの暖に浸っていたいという思いにさせられるのは果たして私だけでしょうか。午前中のわずかな時間の散歩ですが、梢から聞こえてくるたくさんの小鳥の囀りに耳を澄ませることができます。河岸を見れば、日向ぼっこをする鴨の群れ(彼らは時折思い思いに泳ぎ遊ぶかにも見えるのですが、後掲の亀もその仲間です)、また抜かりなく餌を求めて河岸を歩き回る白鷺も眺められます。確か、漱石の言葉だったと思うのですが、「午前中の創作は、午後の愉悦をもたらす」とありましたが、こちらは凡人で、かつ老残の身、散歩のひとときは、身をしていかに体力を維持するかだけに腐心している有様です。

 そんな今朝の散歩中、またしても躓きそうになりました。10日ほど前、躓き、しこたま足を強打し医者にもかかったほどにもかかわらず、性懲りもなく、同じ過ちを繰り返しています。まったく我ながら情けないです。先日の同窓会の席でも、皆さんに「躓かれませんように」とご注進申し上げたばかりなのですが、この様(ざま)で、話になりません。そこへ行くと、同行の家内は幸いそのようなことがないのは年齢差三歳の違いですかね(※)。

 今や短期記憶のできない家内と、補聴器なしには耳の不自由な私とでは、二人で一人前だと、これまで、やや自嘲気味に今の夫婦関係をなぞってきましたが、最近、肝心の私自身の記憶も怪しくなって来ました。それだけでなく思い込み、思い違いが激しく、この歳になって、自らの自己像も大いに修正されるべきだと思うようになりました。その上、昨日の閣議で、認知症施策の指針となる基本計画が決定され、新聞報道によれば、「急速な高齢化で認知症は『いまや誰もがなり得る』とし、みんなが支え合う共生社会の実現に向け取り組みを推進すると明記した」とありました。そこまで認知症は喫緊の全国民的課題になっていると思わざるを得ませんでした。

のんびりと 親がめ子がめ 日向ぼこ
 省みますれば、43年前の11月29日に、父は六十九歳で今でいう認知症を患って召されました。当時は原因もわからず、治療法と言うより、対応の仕方もわからず、家族としての認知症患者の父を抱え、混乱するばかりの悩みと苦悶の八ヶ月でしたが、ただひたすら主なる神様の救いと助けを祈る日々でした。その時の気持ちは、裸一貫荒野を行く心境でしたが、不思議と主のご支配は完全で、振り返れば「恵み」ばかりでした。

 今、認知症について、国民的理解が進む中で、我がこととして新たな決意のもと、どのように向き合っていけば良いのか、主イエス様の知恵と助けを叫び求めながら歩みたいと思わされています。
 
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(旧約聖書 詩篇107篇1節)

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