イチョウの お堀めぐるは 江戸の城 2019.12.7 |
つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。(マタイ18:7〜8)
先週の土曜日は高校時代の同窓生が21名集まって会食した。今回で37回目と言う。私は過去4、5回出席している。毎回12月第一土曜日、『日本倶楽部』となっているので間違うことはない。
ところが2年前は出席するつもりでいたのに、怪我のため欠席せざるを得なかった。それは軽井沢から碓氷峠越えのバスを降りて信越線横川駅へ乗り換えを急いでいたため、あわててバスからステップを踏み出した途端、足が伴わず、その場で倒れ、車止めに顔面をしたたかぶつけてしまったからである。大変な衝撃であった。それもそのはず顎の骨を折ってしまっていた。40日間、口を閉ざし、歯を固定するのが最良の治療であった。その間、歯の隙間にストローを差し込み流動食で耐えに耐えた。
その前の年は長崎行き、昨年は近江八幡行きとかちあい、過去3年間は出席できなかった。そういう意味では4年ぶりだった。会はいつもどおり各自の5分間スピーチがあった。大体が健康法の話である。中でも、つまずいた話が三人ほどからあったように思う。それを聞きながら、二年前のことを思い出していた。自分はもうすでに2年前経験したことだから、皆んなより早く歳をとっているんだなあーという思いであった。その中で一人の方が秀句を紹介してくださった。
新涼や さびしさとして 在る身体
中々味わい深い句である。なおあともう一句紹介してくださった。
僅かなる 睫毛の陣地 夏化粧
高校時代の彼女を知っているだけに、より一層身に迫った。同窓生は三時から二時間程度会食し、二次会にもそのままなだれ込む。いつもはそこで帰ってくるのだが、そのあと一人の方と喫茶店に立ち寄り、話合った。彼のうちに、キリスト信仰を知りたいという思いがおありのように拝見していたからである。もちろん、無神論者の彼にとっては神の存在は荒唐無稽以外のなにものでもない。橋渡しをすべき私にも知恵はない。結局、科学万能主義者であった私が、どのようにして50年前に、主なる神様を信じたか証をするしかなかった。
まだまだ語り合いたかったが、時間も遅く別れざるを得なかった。お互いにがっちり握手をして。ほぼ一時間半ほど電車に乗り、夜道を急いだ。土曜日は風も出てきて冷え込みも厳しかった。線路沿いの10数分通い慣れた道であった。ところが漆黒と言ってもいいところがあった。そこで躓いた。2年前よりは衝撃は小さかった。夜闇にもかかわらず、前につんのめって倒れた様を身近に目撃しておられたのだろうか、一人の若い女性が心配そうに駆け寄ってくれた。「大丈夫です」と答えて、家までたどり着くことにした。
そこから携帯で家内に連絡するという選択肢もあったが、結局7、8分あまり歩いて家にたどり着いた。口内に出血があり、血液サラサラの薬の常用の心配が頭をよぎり、救急車で、顎骨折でお世話になった病院に運んでいただいた。幸い、傷は唇を切った程度で、左足膝、右肘に痛みが少々ある程度で済んだ。家内は日頃から「夜道を歩くのはやめてほしい」と、言っていた。ましてや、今日の同窓生は一様に「つまずかないように」と口を酸っぱくして言っていた。
家内の言はこれまでほとんど無視していたが、数時間前に聞かされた同窓生のことばとあいまって、自らの体力の衰えを痛感せずにはおれない。
イエス様は冒頭の聖句にあるように「つまずきが起こることは避けられない」とおっしゃりながら、返す刀で、「つまずきをもたらす者は忌まわしいものです」とおっしゃっている。「忠告」を「忠告」と受け取らない己が姿は、やはりつまずきを知らず知らずに人様に与えて平気でいることの裏返しかもしれない。振り返れば、二、三日前に下記のみことばをとおして、「力と愛」の霊だけでなく、「慎み」の霊をもいただいていることに無自覚であった自分を示されていたばかりであった。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(2テモテ1:7)
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