鴨の群れ ピヨー一声 従いぬ |
冬は寒く、例年は古利根川にまで足を伸ばしたことはなかったので、言うならば今冬は初体験の毎日です。何かカメラに収めるべき被写体はないかと探すのですが、中々見つかりません。その代わりになるべく二人で会話をするように心がけているのですが、それも最近は湿りがちで、気がついてみたら、口数の少なくなった家内と黙々と歩き続けることが多いです。そうならないよう気をつけて、いるのですが・・・。ただ、時折、家内がすれ違う方々と「こんにちは」と言葉を交わすのが私には救いとなっています。よく聞くと、先方が「こんにちは」と言われたので、自分もそれに応えたのだ、ということでした。私には全然聞こえなかっただけでしたが、それでも元気に反応しているのを知るのは嬉しいものです。。
最近は私自身が「物」の名辞がすぐに出て来なくって、説明するのに難儀します。先日も病院に行くのに「マイナンバーカード」という言葉が出て来なく、「カードが」としか言えず、家内に「あの悪名高きカード」、と説明するのですが、かえって家内にはとんと通じず、しばらく経ってから、「個人番号カード」こと「マイナンバーカード」と名前が思い出せて一件落着となりました。それ以前は「キウイ」という言葉がどうしても出て来ず、そのキウイを、「切ると緑の果物で、丸いもの」とか、説明するのですが、中々通じず、ややあって家内から「ああ、キウイね」と正解をもらったのはいいが、私の中では「キウイ」は「キウリ」としか聞こえず、まさに名前を覚えるのにこれは幸いとばかりに頭の中で「木瓜」と置き換えてしまい、家内から「瓜」じゃない、「キウイ」だと訂正される始末です。
一番困るのは人の名前です。これまで実にたくさんの方々と二人して交友を保って来、それぞれに素晴らしいお付き合いをさせていただいてきましたが、そのことを、説明するにも、お名前そのものが思い出せず、話にならないもどかしさが付き纏います。やっと名前が思い出せても、家内は過去のことはすっかり忘れているので、諦めざるを得ません。幸い、私自身はそれぞれの方々のその都度お出合いした写真を撮らせていただいているので、今後はその写真を整理して説明してみようかなと思うのですが・・・。でも過去を振り返ると、もう十分なほど主はたくさんの方々と交友関係を結ばせてくださって、恵んでくださったのだ、そのことを感謝しようと思っています。
次の歌は「福音子ども讃美歌」の歌詞ですが、なぜか、今の私にぴったりです。多くのことを忘れても、イエス様のことを忘れなければ良いんだな、と思わされるからです。ましてや12月25日はクリスマスですね。この前も歯医者さんに治療に行ったら、クリスマスにちなんだデコレーションの絵とともになぜか英語で確か「I wish you a merry Christmas」と綴ってありました。I wish youはわかるんですが、「merry」ってどんな意味だろうと思っていましたら、翌る日の子どもクリスマス会で、遠くつくばから来てメッセージしてくださった方が、「メリー」は「楽しい」、「クリスマス」は「クリスト、すなわちイエス様、マスは『礼拝する』」という意味だよ、だからクリスマスはイエス様のお誕生を祝う日だよ」と子どもたちに説明していました。私は聞きながら、前日の「merry」というちょっとした小さな疑問にもすぐイエス様が答えてくださるんだと思えて内心嬉しくなりました。
子どもよどこを見てる 子どもよなにを見てる
気をつけなさい 天から見てる
お方がいるのですよ
子どもよなにを聞いてる 子どもよなにを聞いてる
あなたのために十字架にかかり
イエスさまは死んだのよ
子どもよなにをしてる 子どもよなにをしてる
ただイエスさまのみことば聞くの
しずかに聞いていましょ
子どもよだれにたよる 子どもよだれにたよる
イエスさまだけが天のお国へ
入れてくださるのです (ふくいん子どもさんびか22)
さて、話を私と家内が日課としている「散歩」に戻し、アダムがエバを得る以前に、名辞と助け手にちなんで経験した一連の聖句を思い浮かべましたので、下に紹介しておきます。このアダムの孤独にも主はちゃんと答えてくださっているのですね。
鴨たちはピヨーという一声にみなが信頼して従い、孤独からの解放を経験しています。「人よ、主を褒めよ」とはクリスマスの時期、「孤独」をかこつ私たちに、主が発せられる一大音声(呼びかけ)ではないでしょうか。すべての人がその思いに浸られますようにとお祈りしたいです。
神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。(創世記2章19〜22節)
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