2020.5.6 |
家には神棚が台所にあった。仏間には仏壇があり、丈高く、幅広く、部屋の一角を占め、家の中では特別な空間であった。座敷に接し、玄関の間からすぐ入れるようになっていた。毎朝この仏壇にはおぶく(仏供)膳を上げ、夕には下げる。初詣には隣町の多賀大社に出かけた。町内には高宮神社があり、私の字は宮町であり、お膝元であった。社務所には親に託されて一升酒を持ち、若い衆入りすると、いよいよ一人前とされた。
その社務所前で祭りの準備であろうか、後始末の時であったろうか、材木の切れ端や枯れ木をみんなで集めながら燃やしていた時、「あの人はアカだ」ということばが大人の人たちの中から聞こえて来た。何の意味かはわからなかったが、戦後のある時期の社会運動が私の田舎にも身近にあったのだろう。
それはともかく、神社の境内は格好の遊び場であり、最初の遊びは鎮守の森に入ってのターザンごっこや隠れん坊であった。もちろん昆虫採集もした。長ずると男の子は毎日が野球だった。二本の大木の根っこを利用し、一塁、三塁にあてる。ホームベースはその三角形の頂点につくる。女の子は女の子で縄跳びなどしていた。学校が終わるとどこからとなく皆集まって興じた。
そんなある日、そこに一台の車が乗り込んできた。境内に乗り込むなんて非常識だとは思ったが、皆でその車のまわりに集まって、持ち主を驚異の目で見上げたりした。ちょっとした英雄に見えた。何しろ、中山道はアスファルト舗装がもう始まっていたかも知れないが、ちょっと前までは馬が馬糞を残しながら家の前を馬車を引き引き、往来していたのだ。もちろん、その頃は車の持ち主は町に皆無に等しかったのでないか。どうもその人は東京から故郷に帰って来たようだった。
別れ際、みんながまた見せて欲しいと言った。その人もわかった、と言った。その後、野球をするたびにその人がまた現れないかと期待したが、それっきりだった。中学になるともうそのような境内での野球には満足しない同級生も現れ、神社の隣の草地のグランドを利用しての軟式野球に興ずるようになった。そうしていつの間にか神社からも離れるようになった。神社を外側から見るようになった。
一方、家の一人息子であった私は大事に大事に育てられたが、中学校に入った頃であった。父が結核にかかり、休職しなければならなくなった。そのため収入は途絶え、事態は一変した。母は様々な衣料品を仕入れては販売して歩く行商を農作業の傍ら始める。図体の大きくなっていた私は農作業を母と共になす貴重な労働力源となった。田植え、草取り、稲刈り、脱穀、籾干し、畑への施肥のための「肥え」運び。今から振り返ってみると十分な労働であり、空模様を気にしながらの日々は雨・風・雷など自然の脅威をじかに感ずる一時であった。
しかし、そのような時、「死」への言い知れぬ恐ろしさに慄えさせられた一日があった。洋間に一人閉じこもり部屋を真っ暗にし、ひたすら泣き叫ぶだけだった。それは恐らくそのころ友人の父の死を間近に見、今また父が病に倒れたことが起因したと思う。別の日、うす暗い倉の二階にあがり、ちょっとした拍子に何冊かの本を見つけた。その中に、「死後の世界」を描いた本が二冊あった。それは母が先夫の遺品として密かに置いておいたものだった。その中に『霊界の黙示』があった。(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.html)
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14〜15)
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