2020年5月22日金曜日

主のご計画の一端(下)

「女学校時代の母」

 なぜ驚いたかと言うと、その本は気持ち悪いどころか、「福音」がちりばめられていたからである。私の家に、福音に基づいた本があるなんて、信じられなかった。この吉田家は、滋賀県の高宮に家を持ち、北海道森町で米屋をしていた。母はその吉田家に女学校を出てすぐ嫁いだのであった。ところが二人には子どもがいないまま、夫文次郎は中国南昌の野戦病院で戦病死した。21歳のか弱い女性が漁師町で商いができるだろうか。案じた母の実家の両親は引き上げさせ、滋賀県の高宮の地でお家継続を願ったのだろう。もともと母の実家と吉田家は親戚同士であった。

 その彼が残した本を母は森町から滋賀県に引き上げてくる時持ち帰ったのだ。彼のことは父の手前、それほど母は私にはっきり話したわけではないが、それでも私は父のアルバムと同じくらいに彼・文次郎氏のアルバムを見て育った。彼は函館商業を卒業していたが、そのアルバムも何度も見ていた。また母からは文次郎氏が思想問題で軍隊ではうまくいかなかったのでないかとさえほのめかすことがあった。わずか2年ばかりの新婚生活で母の先夫に対する信頼感は、父が休職したおりなど、先夫恋しさのあまり、多分に理想化されてしまっていたのだろう。私はそういう父と母の夫婦生活における微妙なお互いの気持ちの行き違いを目の当たりにして育った。

 そこに後に私が人生で最大の蹉跌を経験する要因がすでに伏在していた。その私に婚約者をとおして三年越しとも言える双方の文通を通して「福音」が入って来た。福音が大切か、先祖以来連綿と続いた家風が大切か、その二者択一をめぐって私たちはキリキリ舞をさせられていた。しかし、主は堂々とよちよち歩きの信仰者に過ぎない私たちに、50年前に新しい吉田ファミリーとしてのスタートをさせて下さった。

 その上、最近になって敬愛する谷口幸三郎氏が、自らの信仰が30年前だとばかり思っていたが、それよりも早く40年前に自ら手がけていた作品があったことを証してくださった。ちょうどその時は、村上恵子さんが召された時であった。私は何とかご遺族を慰める方法がないかを思って、はたと思いついたのが、このサンダー・シングの本であった。ご紹介する限り、いい加減な作品であってはいけないと思い、何回も読んだ。全ページ106頁だからそれほど読むのに骨の折れる作品ではない。

 そして確信を抱いたのは、これはまさに必読書だと言う思いであった。残念ながら訳者のお用いになる日本語は昭和2年のものであって、令和の時代に生きる人々には少し難解かもしれない。幸い、今回英文がサイトで探索したら見つかった。https://archive.org/stream/VisionsOfTheSpiritualWorldBySadhuSundarSingh-1926-UploadedBy/VisionsOfTheSpiritualWorldBySadhuSundarSingh-1926_djvu.txt
参考までに自分でも訳して金井氏の訳文と比較してみたが、やはり大変な名訳で流麗なる文章だと思ったが、明日はその個所の私訳を谷口氏の作品とともに紹介したい。

 それはともかく、このようにして『霊界の黙示(Visions Of The Spiritual World)』がキリスト教は家風にあわないと論戦を張られた私の家に、それも私が生まれる以前の昭和15年(1940年)ごろに北海道森町※の吉田家が畳まれ、滋賀県高宮町の本宅へと帰郷して持ち込まれていたという事実だ。母の先夫吉田文次郎氏がどうした案配でこの本を所持していたのか、そしてほんとうに読まれたのかどうかも明らかではない。ただ本の表裏書きに以下の添え書きがあった。

本郷正嘉より別れの記念に君が机下に送呈す。

 時は日中戦争緒戦のころであった。吉田文次郎氏はじめ多くの若者が召集令状を受けて出征していった。その中にはキリスト者もいたであろう。本郷氏がどんな人物か知る由もない。しかしそこにはこの本に示された福音こそ、生死を分かつ戦争をも、ものともしないという本郷氏のキリスト信仰の告白が秘められていたのでないか。ここにこの本の持つ味わいがすべて語られているように私には思えてならない。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。(ローマ8:18〜19)

(※さらに今から7、8年前、古本で手にした『すべては備えられた』(フィリス・トムソン著松代幸太郎訳)を読んでいたら、その110頁に森町に言及した個所があった。何とハドソン・テーラー創始のO.M.F.が日本宣教のため戦後1951年ごろ上陸したのが「森という海べの町」であったという記述があった。そう言えば私は1979年春先だったと思うが職場の同僚たち八人と函館に旅した折、ほんの短時間だけ一行を離れて一人足を伸ばして、森を訪ねたことがある。森駅の前に海が迫っていた。「ああ、母はこんなところに住んでいたのだ」と白波が波立つ荒い海を見ながら、感慨を新たにしたことががあったが、まさかそこに日本広しと言えども、よりによってO.M.F.によって「森町」が選ばれ、福音が届けられようとしていたとは夢にも思わなかった。そう言えば、今日は母が亡くなって59年だ!)

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