2020年5月2日土曜日

私と「エール」(上)

金婚式の祝  2020.4.26※
舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。(ヤコブ3:8)

 私は今年2月に喜寿を迎えた。ところが、私の肉体には、この頃体の欠陥が次々現れてきている。先ず、「唇」である。昨年末高校の同窓の集まりの後、家内にもこの会で一人の方との交わりが大変良かったので、いっときも早くそのことを報せようと、喜んで帰ってきたのはいいが、心が急いていたのか、暗い夜、思わぬところでつまずいてしまった。その打った場所がいけなかった。再び車止めだった(2017年11月だったか、信越線横川でバスを降りる際、足を踏み外し、倒れ、顎の骨を折る大怪我をしたことがあった)。相方の唇は擦過傷を負い、出血が激しかった。救急車のご厄介になった。その時、縫ってもらわなかった。そのせいか、未だに唇がだめになっている。

 次に「鼻」である。昨年だったか、ある集まりで突然鼻血が出た。それからことあるごとに鼻血が出るようになった。医者は興奮するから出るのだとおっしゃった。思い当たる節はある。すぐ一つのことに熱中する。だからのんびりと生活しようと思っている。でも、この一年間鼻血は収まらない。

 ところで、今一生懸命に打っているこの「指」もまた問題をかかえている。「指」の折り曲げが困難で傷んで仕方がないのである。こんなふうに体の部位を書きつらねながら、一番肝心の「頭」が抜けていることに読者も気づかれることと思う。

 ところが、聖書はもっと素晴らしい指摘を私にくださっている。 

 昨日の聖書通読箇所の一つにヤコブ3章、4章があったが、その中で3章の「舌」に目が釘付けになった。リビングバイブル訳は3章全体に「舌をコントロールする」と見出しをつけている。そして出だしを次のように訳していた。 

「愛する皆さん。みなが教師のようになって、人の欠点をあげつらってはいけません。自分も欠点だらけではありませんか。人よりもすぐれた判断力を持つべき私たち教師がもし悪を行うなら、ほかの人よりはるかにきびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1) 

 毎朝、NHKの「エール」を見ているが、自分にはこどもを心から愛し育てて来なかったという後悔がある。その一つの性質がここに出て来る、「教師」としての自分の存在だ。こどもをほめてこなかった、いつもきびしい視線しか持たなかったという思いがある。 

「賛美とのろいが同じ人の口から出るのです。愛する皆さん。こんなことがあってはなりません。同じ泉の水が甘くなったり、苦くなったりするでしょうか。いちじくの木にオリーブの実がなったり、ぶどうの木にいちじくの実がなったりするでしょうか。塩水の池から、真水を汲むこともできません。」(ヤコブ3:10〜12) 

とあった。ああ、自分はこのような救いようのない人間なのだ、だからイエス様のいのちをいただいているのだ(という思いがする。 )

(※五人の子ども家族がすばらしい贈り物をしてくれた。その中の一つである。こどもたちのエールである!)

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