伏しし母 紺碧の空 眺め居り |
小さな庭であり、主要な樹木(もちの木、金木犀、山茶花)も三本ですから、三時間半ほど、二人の方で葉刈りをしてくださり、綺麗さっぱりとした庭になりました。庭の中身を紹介するでなく、あくまでも空の青さを味わいたく、このような構図の写真になってしまいました。以前には、と言っても何十年も前には、正面の屋根の向こうに、元の庭の一部であったのか、松の木が形よく枝振りを見せていたのですが・・・。いつの間にか、歳取ると、そんなこともすっかり忘れてしまっています。
建築を生業としている次男は何とか、この家屋が生かされないかと考えていてくれます。奥に覗いている倉がいつの建造物なのかは知らないのですが、少なくとも本屋は私の年齢に先行すること3、4年ですので、人間に例えれば今80歳半ばを越えています。そもそもその庭にしたって私の小さい頃には梅の木が手水鉢に接して植えられていました。その木が枯れてダメになった時の母の落胆ぶりを思い出します。ツツジは石組みのまさる庭にあって可憐で綺麗な花を今も咲かせてくれていますが・・・
若くして不治の病にかかり44歳で亡くなっていった母は、最晩年寝室から庭に面する座敷に移り伏し、この庭を眺めながら、世間から女だてらにと嫌味を言われても、お家再興のためにと建造を決意した自らの家を思い、何を考えていたのでしょうか。庭を取り巻く壁は、まさに空の青をベースにして、それも塗り壁は平面でなくやや凹凸のある塗り壁でした。それは座敷の襖(山並みと空をモチーフにした)と相まって綺麗なものでした。先ごろも一足早く故郷入りを果たした次男が、口を注ぐごとに、その美観と造作の丁寧さを語ってくれました。母は、80数年を隔てて、今その孫がその良さを味わい、何とかこの家を残したいと考えていることを知ったら何と思うでしょうか。
私もこの家を出立してから、いろんな住生活を経験して来ました。浪人時代にはミゼットハウスという1960年代に流行ったプレハブ住宅に住んだこともあります(大徳寺の一塔頭に下宿した時です)。かと思えば教員になって下宿したのは山裾に位置した農家の2階でした。五右衛門風呂でした。私にとっては全く初体験で驚くことばかりでした。その後、同僚に誘われて演劇活動に加わった時、舞台で、大道具よろしく、簡単にセットされる家屋の姿を身直に体験するたびに、それまでの私の住生活の考えは根底から覆されました。それは、家はどんな家でもいいんだ、住めればいいんだ、問題はそこでどんな生活を歩むのかということだ、と。このことは少なからず、私が主の救いを求めていたことと並行した心の動きとなっていたのかも知れません。
気がついてみたら、故郷のこの家を出てからは、先ほどの農家の二階生活に端を発し、その後由緒ある旅荘(栃木県足利市の巌華園)の一隅の洋間を使わせていただいた生活、県営住宅、校長官舎、2DKの団地生活、3LDKの団地生活、一軒家の中古住宅、そして新築して現在住んでいる積水ハウスによる家屋と8回とその住生活を経験させていただいて来ました。
振り返れば振り返るほど、我が身がこうして生かされて来たのは、住生活を振り返るだけでもすべて我が力によるのでないという思いです。母は若くして、お家再興のために家を新築しました。しかし、自らその生涯を全うできずに、一人息子を残し、自ら建て上げた家を残し、去っていかざるを得ませんでした。これらのことは、母にとって人間的に見れば無念だったと思います。
紺碧の空は、彦根地方ではそう度々経験できる空でないように記憶しています。しかし、私にとってこの紺碧の空は、それだけにとどまるものでなく、一身を投げ打って誠意を尽くして生き続けた母も「救い」に加えられて住んでいるに違いない天の御国を思わせるものでした。主なる神様は、この紺碧の空をも造り、今も私たちが主イエス様による罪からの救いを体験して、ともに主とあい見(まみ)えることを願っておられると思うからであります。母には、その生前に、その福音を私の口から伝えられませんでした。しかし、病をとおして必死にその罪と死からの「救い」を求めていた彼女を、全知全能の主が放って置かれるはずがなかったと思うのであります(※)。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(新約聖書 1テサロニケ4章16〜17節)
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