2024年11月7日木曜日

ルーテルの恃み(8)

河岸を 餌求め歩く 白鷺(※)
 なかんずく1520年にはルーテルは三つのえらい著述を為した。これは三大宗教改革論文といわれ 、今日においても実に貴きものである。しかもかかる立派な著述を八月の初めから十月の初めまで、僅々二ヶ月の間に引き続いて発表したのである。その一つは有名なる『キリスト者の自由』であった。次は『教会のバビロン俘囚』であった、もう一つは『ドイツの貴族に与うる書』であった。いずれも聖書の重んずべきことを主張したる論文である。

 例えば『キリスト者の自由』においてはこんなことを言うている、「霊魂に自由を与えるものは外側の事物ではない。僧の衣を纏(まと)いローマの本山に住んでも霊魂には何の益にもならない。霊魂はただ神の言すなわち福音さえあれば足りるのである。福音によりて初めて真の自由が得られるのである」と。あるいはまたいう、「今日豪然として法王様とか監督様とかいっておる者を聖書には何というておるか、曰く役者(つかえびと)、僕(しもべ)、家宰(いえつかさ)と呼んでいるのである。彼らは信者という点においては少しも一般のキリスト者と違わない。ただ違うところは彼らは信仰上のことをもって他の人々に仕える僕であるのみ」と。

 『教会のバビロン俘囚』の中にはこんなことをいうておる、「すべてのこと皆ただ聖書によってのみ判断すべし」と、すなわち聖書以外に判断の根拠は何処にもないというのである。而して彼は聖書に照らしてローマ教会の聖礼典制度(サクラメント)を鋭く批評した。洗礼と主の晩餐以外のサクラメントは皆聖書に基づかない人間の伝説または命令によるものだからこれを廃止すべしというている。

 また『ドイツの貴族に与うる書』には、ローマ教会が法王のほか何人にも自分で聖書を解釈することを許さないことを手厳しく非難していうている、曰く「聖書を解釈し得るものが法王のみであるというならば、しかしそれがほんとうなら聖書の必要がそもそも何処にあるか。むしろ聖書をやいてしまってローマにいるあの無学無信仰の坊主たちで満足するがいい。現に彼奴(きゃつ)等が悪魔の手先であるということを知ったのも、私が自分で聖書を解釈したからではないか」と。

 一にも聖書、二にも聖書、三にも聖書、聖書聖書聖書である。そしてその論鋒の鋭いこと、実に聖書によらなければ到底できないところである。ルーテルには敵の本営を突き崩さねばやまぬような鋭い力があったが、それは彼の性格によるというよりもむしろ彼の用いた聖書の力であった。聖書そのものが両刃の剣よりも鋭いのである。これはいわゆる「たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」(新約聖書 ヘブル4章12節)。これを武器として用いて、鋭からざるを得ないのである。

 そのうちに遂に法王はルーテル破門の令書を発布した。ルーテルは法王より狐、野猪、猛獣などという名を被(かぶ)せられ、いよいよ最後の処分に処せられたのである。この当時において恐るべきものは地震でもなく雷でもなく、実に法王よりの破門であった。幾百万の忠良なる国民と精鋭なる軍隊とを背後に有する皇帝すらも、この処分には敵(かな)わなかったのである。しかるに見よ一巻の聖書の他何の頼るところなき寒僧ルーテル、彼は同僚と学生とを招きウイッテンベルヒの門外に火を炊いて法王の令書を焼いてしまったのである。一人の坊主が法王の令書を焼いたと、これを聞いてドイツ全国否欧州全体の心臓がひっくりかえるほど驚いた。今日の我々にはとてもその驚きを想像することができない。しかしながら聖書によってキリストと神とに恃める一人のルーテルは強かった。皇帝を頤使(いし)するローマ法王といえども、彼一人をどうすることもできなかったのである。

 遂に1521年の有名なウオルムスの議会が来た。正にルーテル三十有八歳の春である。この議会は皇帝チャールズ五世の即位以来初めての議会であったがため、その議題に上るべき事件は色々あったが、なかんずく最も重要なる問題はドイツ国とローマ法王庁との関係であって、而してその中にはもちろんルーテルの破門に関する帝国の処置如何ということも含まれておった。法王はこの議会へ使者を遣わして皇帝宛の親書を送り、ルーテルに対する破門処分を執行せんことを要求した。皇帝は政治上の理由よりこの際法王と握手せんことを欲していた。しかしながら一応の審問もしないで法王の要求のままに自分の臣下を処分するが如きは威厳にも関するというわけで、ルーテルを召喚し議会へ出頭させることにした。

 途中ルーテルの一身に関しどんな椿事(ちんじ)が持ち上がるかも知れぬ虞(おそれ)があるので、皇帝からその安全を保証するための保身券が下付せられた。ルーテルはこの皇帝よりの召喚の命令に応じて、1521年4月2日遠くウオルムスに向かい、ウイッテンベルヒを出発した。彼の前途は雨か霞か、黒い雲が一面に地平線の上を蔽うているが如くに見えた。死の影が前に漂うているが如くであった。いずれにしろ唯ですむはずがなかった。ルーテルはもちろんそのことを自覚しておった。しかしながら彼には恃むところがあった。まさに出発せんとするに臨みその友リンクに手紙をやって言うた、「私は知っているかつ信じている、主イエス・キリストが今なお生きて我らを護って下さることを。私はただこれに頼るのである。ゆえに一万の法王といえども恐くはない。何となれば私と一緒におる者はローマにおる者よりも遥かに偉大であるからである」と。

 ウオルスムスといえばライン川の上流に位し、ウイッテンベルヒからは二週間の長い旅路である。この間ルーテルは到るところで聖書について説教をした、ことにあのエルフルトの修道院に泊まった時には如何に思い出多く感じたことであろう。そこにおいて彼はキリストの復活についてえらい説教をなした。かかる場合にありながら、彼の心中を占めておった問題がどんな種類のものであったかがわかる。旅行の最後の駅オッペンハイムへ着いた時、自分の殿様のフレデリック選挙侯の秘書官から一通の手紙を受け取った。それには危険だからしてウオルムスへ来ることを見合わせよと書いてあった。そしてジョン・フスも皇帝の保身券がありながら焼き殺されたではないかと書いてあった。ルーテルは直ちに返事を認めた、曰く「フスは焼かれた、しかし真理は彼と一緒に焼かれない。私はウオルムスへ行く。たとえ屋根の瓦の数ほどの悪魔が待っているとも私は行く」と。

 ウオルムスでは朝早く物見の塔に出ておった見張り人がラッパを吹き鳴らしてルーテルが見えたと知らせた。町の人々は朝餉(あさげ)をやめて外へ駆け出で、僧服を着て妙な旅行帽をかぶっているルーテルを見た。街は群衆で押し合いひし合いし、辛うじて通り抜けることができた。翌日午後四時頃議会に呼び出された。議場へ入って見ると正面の玉座に皇帝た座っている、その下には六人の選挙候が並んでいる、満堂には諸侯貴族僧侶自由都市の代表者外国の使臣などが綺羅星の如くに着席している。すべてで五千人以上の人が堂の内外に集っておったという。

 皇帝の前には卓があって、その上に本が山の如く積み重ねてあった。みなルーテルの本である。皇帝の代表者が出て来てその本の表題を一々読み上げ、「これらは皆ルーテルが書いたものであるかどうか」と尋ねた。「その通り、私の書いたものに相違ありません」。しからば今なおこれを固執するかあるいはその一部または全部を取り消すかと。ルーテルにとっては軽々しく即答のできない質問であった。何となれば彼は決してつまらぬ意地を張って自分の書いたものを何処までも固執しようという気はない、彼の恃むところは自分ではない、ただ聖書である、かつて自分の書いたものにいやしくも聖書に背くような節が一点でもあるならばそれを取り消さないわけにはいかない。ここにおいて彼は自分の著述の全部にわたり一応調べ直して見なければならなかった。彼は一日の猶予を乞うた。而して翌日また召喚せられることになった。

※ 今、古利根川は白鷺、青鷺が川の上を飛行しては、餌になる魚を求めては歩き回っています。しかし白鷺の「白」は美しいもので、何か私には訴えるものがあります。造物主はこうして私に無限の慰みをくださいます。

 さて、アメリカ大統領選は結果が判明しました。トランプ氏の圧勝でした。実は私は、結果が判明する前に、いったん次のようにコメントを書きましたが、削除しました。その文章とは次のものです。
 トランプ支持者のうちには福音に立つ人々が中核を占めていると言われています。一方ハリス氏はどうなのか、数ヶ月前に彼女の著書『私たちの真実』を読みましたが、その中で彼女は次のように述べていました。「私は寝る前にはいつも、短く祈りを捧げた。『神よ、どうか私に正しいことを行なう力をお貸しください』。自分の選ぶ道が正しく、最後までやり遂げられる勇気がもてますようにと祈った。とりわけ、私を頼りにしている多くの家族が安全に不安なく過ごせますようにと。彼らの生活がどれだけ危機に瀕しているかをよく知っていたからだ。」(同書123頁より引用)
 こう書きながらも、私はハリス氏の信仰とは如何なるものか、もう一つ確信が持てず、判断しあぐねていたところがありました。彼女はこの本の中で信仰に関し三箇所ほど書いていましたが、この箇所は彼女の信仰のあり方を示すにふさわしいのではないかと思って引用させていただいたのですが、ルーテルの信仰が上述のように、全面的に主に依存するものであるのに対し、ハリス氏の場合は全面的でないのではないか、「お貸しください」という祈りがいみじくも示すように、それはご利益主義と異ならないものになるのではないかと少し思ったからです。祈りの次の文章が示しますように、ハリス氏の善意は分かりますし、彼女が落選したあと、今後どのようにその思いを達成していくのか期待したいと思います。 

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