2024年11月4日月曜日

ルーテルの恃み(5)

福音は 継母にいのち 継がせたり(※)
 しかしながら、遂に煩悶の暗き夜の明ける時が来た。救いの朝がやって来た、彼の上役たるジョン・スタウビッツがある時彼に教えて、聖書には神の方から罪人の側へ来てくださると書いてあるというた。この一言は実に鋭い矢のようにルーテルの胸を貫いたのである。それから彼は熱心に聖書を研究した、ことにそのロマ書を研究した、而して驚くべし、彼の今日まで予想だにできなかったえらい福音が、彼の胸の隅から隅までを照らし渡ったのである。その昔使徒パウロの舐(な)めたる経験が、そのまま彼の胸に飛び火したのである。時は千五百年を隔て、ところはギリシヤとドイツとに離れながら、パウロの心臓を打ったと同じ鼓動が、今このエルフルト修道院内の一青年の心臓にも響いたのである。

「今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(新約聖書 ローマ3章21〜24節)

 人みな既に罪を犯したれば神より栄を受くるに足らず、人はみなかかる浅ましき者であれば自ら進んで神に近づくことはできないのである。たといいかなる善行をつみ苦行を重ぬるとも自分を清く義しき者として神の前に出ることは絶対に不可能である。そこまではルーテルが痛切にこれを経験して知ったのである。しかし、事はそれでおしまいではなかった。人は神に近づくことができない、しかしながら、神はそれでほっとき給わないのである。神はご自身進み出て下さるのである。神は我々の近づくを待たずして、自ら我々に近づいて下さるのである。神ご自身がその姿を我々の前に現わして下さるのである。見よ、イエス・キリストを、十字架の上のイエス・キリストを、あの愛は、あれは何であるか。

 神ご自身が我々のために苦しんで下さるのではないか。我々がどんな心をもって神に対しても、神は遥かにそれに勝るところの限りなき愛をもって、我々を抱いて下さるではないか。キリストを見る時に神の愛がどんな性質のものであるかということが紛う方なくはっきりとわかるのである。従って、また我々が何をなすべきかということがはっきりと分かるのである。我々は何にもしなくても宜しい、断食も要らない、修養も要らない。ただこのキリストにすべてをお委せすればいいのである。この身このまま、汚れたるこのまま、弱きこのまま、彼の足許にひれ伏して、この私をあなたに献げますといえば、それで足りるのである。その時に神は我々の心の中に住み給うのである。その時に我々はまったく生まれ代わるのである。その時に今まで知らなかった自由と平和との新たなる生命が我々に与えられるのである。ただそれだけ、お委せするだけである、それがすなわち信仰である。

「義人は信仰によって生きる」(新約聖書 ローマ1章17節)

 然り、ただ信仰のみによりて生くべし、信仰以外には絶対に何物も要らないと、これすなわちルーテルの救いであった。彼はこの大発見を為して躍り上がって喜んだ。彼は赤革の大きな聖書を両手で自分の胸に押しあてて、ああこれ我が書なりと叫んだ。後に至っていうておる、「余はその時たちまち新たに生まれたように感じた、ちょうどパラダイスの戸が目の前に開いておるのを発見したようであった、ロマ書は実に余にとってはパラダイスの門であった」と。

(『藤井武全集第8巻』611〜612頁より引用)

※ 継母が召されて三十年経ちました。今日の写真は、その継母の甥であるK兄がアメリカ出張のついでに、プレゼントとして持ち帰って来たものの一部、見開き2頁分のものです。私の書棚に大切なものとして仕舞い込んでいたにもかかわらず、これまで過去2、3回手にとり眺めたに過ぎませんでした。
 一昨晩私はダニエル書10章を家内と一緒に輪読していましたが、その12節を読むうちに、この本の存在をありありと思い出したのであります。浄土真宗の門徒であった継母は最晩年末期のスキルス性の胃癌で苦しみました。1994年の1月のことでした。急遽、故郷彦根から継母を引き寄せ、そのいのちの永らえんことを家族はもちろんのこと集会の皆さんにも祈っていただきました。
 その前年のクリスマスの日、甥であるK兄は救われ、洗礼を受ける恵みに預かっていました。そして、苦しんでいる継母の枕元にこのイギリスRandom House社発行(?)の『The GOSPELS BOOK of DAYS』をプレゼントしたのです。この冊子の日付頁に私は幾つかのみことばを書き加えていました。そのトップバッターがダニエル書10章12節でした。いうまでもなく、継母がイエス・キリストの前に頭を下げたことを喜んでのみことばでした。それだけでなく、その続きに今日の写真内のみことばも書かせていただいていたのです。これまたルーテルと同じ新生の喜びの帰結であります。
 三十年来真剣に見向きもして来なかったこの日付日記を兼ねた本は、四福音書からなる主の十字架にちなんだ聖句と絵を五十組載せていました。私は三十年前にはこのような構成に無感覚であった不明を恥じ、今よみがえってきた感謝(ピリピ4:10)の思いを、K兄にお伝えしたいと思わされております。

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