2024年11月9日土曜日

ルーテルの恃み(完)

四 祈祷と讃美

 ルーテルのことについて語るならば、一晩語り続けてもとても尽きない。私はことに彼の家庭生活に言及し得なかったことを遺憾とする。彼の家庭もまた聖書本位であった。彼はまた特別に祈祷の人であった。後年皇帝がアウグスブルヒに宗教会議を開いた時、彼は独りコーブルヒに遣わされて甚だしき不安の中に幾月かを過ごさしめられた。その間彼の生活はほとんど聖書の研究と祈祷とのみであったという。その時彼と一緒におったデートリッヒがメランヒトンに送った手紙にいう、「かかるわびしい生活の間にこの人が現わした非常なる忍耐と勇気と信仰と希望とは、いくら驚嘆してもなお足りない。しかし彼がかかる力を得た所以は絶えず神の言と親しんでいたからであった。彼が一日に三時間を祈祷のために費やさなかった日とては一日もない、而もそれはいつでも一日中の一番よい時間であった云々」と。聖書本位の生活はまた当然祈祷の生活である。何となれば福音によって神に近づけば近づくほど、我々と神との交通は益々親しくならざるを得ないからである。

 而して祈祷の生活はまた必ずや讃美感謝の生活である。ルーテルは大なる患難の中にありながら、彼の口には常に感謝の声が溢れておった。彼は幾たびか悩みの間に在りて自ら讃美歌を作った。1527年彼が結婚の二年目は、彼にとって極めて多事なる一年であった。ルーテルは重き病気にかかり、もはや最期も近く見えた。彼の新しき家庭には何らの資産とてもなかった。しかし彼は妻の篤き信仰を見て自ら慰めた。妻の親切なる看病によって漸く死を免れた。しかるにそれに次いで、ほとんど昔のエルフルト修道院時代に劣らぬある烈しき霊的煩悶が来た。それは信仰によって漸く解決した。

 しかるに今度は恐るべき疫病がウイッテンベルヒへやって来た。大学と選挙侯の宮廷とは一時町を引き揚げてエナに移転した。侯はルーテルにも是非避難せよとくれぐれも忠告した。しかし彼は聞かなかった。彼は言うた、「私は私の羊が一番私を要する時に、これを棄てて逃げることはできません」と(※1)。彼は疫病の町に踏み留まった。臨月に近き妻も一人の幼児も一所に留まった。疫病は町の片隅から始まってたちまち十数人の死者を出した。これらの死屍はルーテルの家からほど遠からぬ場所に埋められた。疫病は町の中心に入り込んだ。ルーテルが市長夫人と同席しておった時、その夫人はたちまち斃れた。ルーテルの友人シュルフ博士の妻もやられた。彼の親しき牧師の妻も死んだ。ルーテルは牧師一家にその疫病つきの家を棄てて自分の家へ同居さした。とうとう疫病はルーテルの家へ入った。ルーテル家に寄寓しておったある婦人が襲われた。その間に妻の重きお産があった。長男が病気に罹った。しかし幸にして皆が心配したように疫病ではなかった。こんな間へまた知らせがあった。曰く南ドイツで信仰の迫害が始まりバヴアリアの牧師が焼き殺されたと。内憂外患一時に彼を襲撃した。しかしながら神に頼れるルーテルは福であった。彼はその時の心境をそのまま一つの讃美歌に綴った。

堅き城なり我らの神は、
拠るべき楯なり剣なり。
我らを襲えるすべての悩みより
いみじく我らを救い給う
(略 ※2)

 ルーテルに学ぶべきところはもちろん一二ではない。しかしながら私は今日特に彼がいかに聖書を重んじたか、いかによくこれを研究したか、いかにこれをもってすべての問題を解決したか、を高調する必要があると思う。聖書を研究せずして信仰は維持されない。聖書を重んぜざる信仰は、浅薄なる信仰にあらずんば誤りたる信仰である。今日我が国キリスト者の信仰に果たしてこの欠点がないであろうか。我らは果たして福音を福音のままに信じておるであろうか。父と子と聖霊とについて明確なる信仰を持っているであろうか。復活を信じているであろうか。キリストの再臨を信じているであろうか。黙示録やイザヤ書はよく研究されているであろうか。この世の事業にのみ熱中する現世的宗教、道徳と混同せられたる浅薄なる信仰、手段方法のみに苦心し数字統計に重きを置く偽の伝道、これらは皆聖書を重んぜざるの信仰である。かかる信仰は欧州の中世教会の信仰と等しく、また早晩改革の必要あるものである。而してこれを改革するの道は他なし、深き祈りをもってする聖書の研究にあるのである。(『藤井武全集第8巻625〜630頁より引用)

※1 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。(新約聖書 ヨハネ10章11〜15節)

※2 言うまでもなく冒頭の写真はそのルーテル自筆の楽譜(『改革者マルティン・ルター』岸千年著101頁所収)で、有名な讃美歌267番は彼の作詞作曲によりますが、その原曲を表しているものです。

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