水温(ぬる)み 甲羅干しする 亀家族 |
にわか仕込みの子育て(孫育て)もかれこれ三週間目に入った。連日連夜、お母さん、お父さんは大変である。私たちはその恩恵にあずかる毎日である。赤ん坊をこんなに身近に覚えるのは私にとっては初めてのような気がしてならない。いったい、5人の子育てや、8人の孫育てにかかわっていたのだろうか。私はともかく、家内も同じ思いでいる。
すっかり、引きこもっていた家内も、赤ちゃんのペースに合わせ、生活できるようになっている。最初は私たちの家庭で十分受け入れられるだろうかという思いもあったが、新しい命の成長ぶりを見るのは、老いゆく私たちにとって起死回生の妙薬である(※)。
そんなことを考えていたら、2022年に一年間連載した青木澄十郎さんに次の文章があるのに気づいた。(国会図書館デジタルライブラリー『信仰群像』ヘブル書第11章講解 63〜64頁より)
モーセの偉大さは喧々(けんけん)する必要がない。ユダヤ人は私たちは「モーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話になったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ」(ヨハネ9:28)と公言したほどで、イエスを認めぬユダヤ人もモーセと言えば建国の偉人として彼らの誇りとするところであった。このモーセについてヘブル書は如何なる点を信仰の模範としたのであろうか。先ずその言うところを聞こう。
「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三ヶ月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした」(ヘブル書11:23)
これがモーセの信仰から学ぶ第一の点である。現行訳の『信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって・・・』とあるのは読者を誤らせる。それはヘブル書が『両親』の信仰を紹介せんとしているかのように見えるからである。決してそうではない。これはモーセという人物は出生の時からすでに『信仰によって』包囲されていたことを示すためである。如何に彼が信仰の中に懐胎され、信仰の中に分娩され、信仰の中にうぶの声をあげたかを示さんとしているのである。信仰は神の与え給うところであって、人が自分で造り出すものではない。
ある人は年老いて始めて信仰に入り、ある人は青年の時すでに信仰に入る。早く信仰に入った人ほど幸福である。神が偉人を起こし給う時はその胎内にある時から準備し給うのであって、エレミヤを召し給うた時にも「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」(エレミヤ書1:4)と言っておられる。
モーセの場合においても胎内にあるときから、神は彼のために信仰を用意し給うたと云うのである。だがこれを逆に観察するならば両親の信仰は胎児にも作用することを示すことになる。モーセによってヘブル書が我々に教えんとすることは第一に、信仰は神の賜物であること、第二に信仰によって孕まれ信仰によって生み出された子は幸いであることである。
※この2月8日に、私どもの9人目の孫として誕生した赤ちゃんは、両親により、2列王記2章19節以降を出典として「しおり」と名づけられた。上の青木さんの講解は私たちの「しおり」ちゃんへのお祝いのことばだ。
エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。(旧約聖書 2列王記2章19〜22節)
こんにちは タイトル、意図的に「音づれ」?
返信削除訪れるのは春でも、音を連れてやって来るのかなぁ。亀のポチャンと水に入る音とか…
なーるほど。訪(おとず)れだったですね。「ポチャン」という擬音もすてきですね。奥行きが出て来ました。ありがとうございます!
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