2024年2月11日日曜日

主がくださる贈り物

春を呼ぶ 伊勢崎ピアノ 音響く
 三ヶ月ぶりに伊勢崎に行って来た。残念ながら、我がメッセージは、時間ばかり喰い、要領をつかんでいただけない代物(しろもの)であった。いつものことではあるが、こういう場合、帰る時には気が重い。しかし、今日は少し違った。それは駅構内に入るや、写真のピアノ演奏が行われていたところに、ちょうど遭遇したからだった。例により音楽の素養がない私なので演奏曲が何なのかわからないが、勝手にショパンのポロネーズの演奏ではなかったかと家に帰って調べたら、そのような気もしてきた。

 問題はこのような演奏が駅構内の自由通路で行われていたことだ。周りには駅ベンチに腰掛けている二十数人の人がいるだけで、その人たちも特別その演奏を静かに聴こうとしてその場にいる人でなく、私のように電車の待ち時間を過ごしているに過ぎない。ピアノ演奏者は、冬の自由通路ゆえ、外の風も吹き込む寒いところにも関わらず、ただピアノに向かって一心に鍵盤を叩いておられた。私はしばしそのピアノに耳を傾けた。演奏が終わるやどこかから拍手が起こるかと思いきや、何の反応もなかった。その方はピアノの蓋を閉じ、まるで何もなかったかのように、その場をさっと立ち去られた。私は「それでいいの」と思いながら見送った。

 演奏者もいなくなり、ピアノは、一人取り残された感じになった。それまで遠目で見えていた、派手派手のピアノのラッピングを近くで見て、写真に収めた。ところがそれから十分ほど経ってからだろうか、今度は別の人がピアノに向かって演奏を始めた。その時にはもう帰りの列車に乗る時間が来たのでその場を離れざるを得なかったが、後にしながら、「伊勢崎市やるじゃない!」と嬉しくなった。市民がこうして誰にも拘束されることなく音楽を楽しむ場所が公共空間に設けられていることに拍手を送りたいからだ。

 演奏者はそれぞれ自己の信念に基づいて演奏し、静かにその場を立ち去る。多くの人は無関心であるかもしれない。けれども、きっと聞いている人も中にはいらっしゃるだろう。その人たちにとって、その音楽により慰められたりするのではないだろうか。それだけでなく、自分もやってみようと思う人も出てくるのではないかと、このような試みがいつまでも続けられるようにと願う(※1)。

 さて、春日部から伊勢崎は電車で二時間弱、三月に一回と言うペースはいつも車窓から見る景色に四季折々、魅了させられる。今回も往きの時、利根川を渡る際の風景は遠く富士山も見え、なかなかいい景色なのだが、いつも撮りはぐる。行きはそれどころでない。まずくはあれどメッセージの仕込みにそれこそ神経を集中しているからだ。帰りはその点、その日の出来具合にがっくり来ていても、車窓から見る風景は私にとって大いなる慰安の時である。何枚か写真に収めたが、冠雪している山は、多分日光の男体山だと思う。これらの山容は足利付近から撮った。こうしてみると、埼玉県の平野部に住みついてほぼ半世紀経つのだが、滋賀県という山や湖・川に恵まれた地に生を受けた私には、心の奥底に、川だけでなく、やはり山を見ているとなぜか心が落ち着くのだ(※2)。

 今回はメッセージのまずさを指摘するだけで、多くを語れず、それに合わせるかのように、小さなお交わりを書き留めることはしなかったが、いつもに変わらぬ豊かな交わりを得た。互いの高齢化に伴う肉体の各器官の衰えを意識しつつ、病を新たに得た友を心配し、例の犬騒動のあった場所は、広い伊勢崎市なのに、意外と礼拝した場所の近くであったこと、またお隣の前橋市政のことなど、行動して初めて知り得る数々の事実もあった。振り返れば、三月に一回の伊勢崎行きはこうして今回も私にとって、主から多くの贈り物をいただいた時となった。

※1 詳しい内容は「伊勢崎駅ピアノ」で検索されると知ることができます。なお、解説を見られるとそのピアノの由来もわかりますが、このピアノのラッピングは「赤いレンガ造り」というテーマで「伊勢崎銘仙」を基調に制作された須藤玲子さんのデザインによるものだそうです。

※2 『翔んで埼玉ーー琵琶湖より愛をこめて』を昨年末、郷里滋賀県の彦根の劇場で見ました。この二月八日に生を受けた赤ちゃんは果たしてどんな思いでこれからの生を送っていくのでしょうか。生まれてからの一日一日の歩みを通して、キリストにある豊かな交わりを体験していって欲しいなと思わされています。

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(新約聖書 コロサイ3章16節)

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