私はこの本を二十数年前には手にしていたが、2003年に蔵書を大量に処分した際、処分してしまった本である。そのような本をなぜ再び、今度は図書館から借り出してまで読む気になったか、と言うと、それはひとえに一月(いちがつ)以来ずっと追跡していた「山崎鷲夫」氏の存在にかかわることである。
私は山崎さんが書かれた『宣教物語 地の極の開拓者』の叙述に痛く感動した(※2)。その際、この著者はどのような時代・環境の下でこの本を書き、これだけの叙述ができるかその理由が知りたくなり色々調べた。その結果、彼には『ホーリネスバンドの軌跡』(1983年刊行)の編著者としての総頁数800頁弱にも達する大部の本があり、この本は先ほどの『涙の谷を過ぎるとも』とは異なり、処分せず、私の書棚に残っていることに気づいた。ただし紐解いたことはなかった。
今回概略眺めてみたが、その時、改めて小山宗祐牧師補の一件をどのように山崎さんは受けとめているのかが、戦前の著作の好印象もあり、気になった。それもあり、この坂本幸四郎さんの書かれた『涙の谷を過ぎるとも』を思い出し、是非とも再読しなければと思い立った。今週市外の図書館を経由して借り入れることができた。幸い、二回読むことができた。そしてこの本の魅力が何なのか改めて考えた。
それはそのままでは歴史の中に埋もれてしまいかねない小山宗祐氏をその死後、28年経っているのに、その真実を調べ上げていった根気強さとその愛の尊さを随所に感じさせられるものだった。
そもそも、一人の人間の生と死は必ず戸籍に記録されるが、その戸籍を知ることが、場合によっては、いかに困難になるかを知って驚かされた。特に、自らの信仰のゆえに国策である戦争に異議を唱えざるを得なかった小山宗祐さんの場合、非国民として罰せられたので、周りにいる者のすべてが(家族やキリスト者をふくめて)事件には決して触れて欲しくない思いを戦後数十年経っても持ち続けていたので調査は困難であった。
著者の坂本幸四郎さんが最初調査に取り掛かったのは1969年(昭和44年)とあった。その時、彼は自らの戦争体験を振り返りつつ、次のような確信を持っていたのがわかる(※3)。
「生身の人間にとって歴史とはなんだろう。歴史の書にあらわれてくる人名は著名な人で、指導者である。そのほかはひとりの人間として無視され抜け落ちている。このひとたちに歴史がないのだろうか。そうではない。書かれないだけだと痛く感じた。
軍隊生活を思いだした。ここは極端な員数社会である。ひとりの人間の人格、自由が抹殺されている。・・・
書かれない歴史のなかにうごめく無数のひとがいる。新聞の束の裏から何千、何万という目がこちらを見ている気がした。その中に小山宗祐青年の目がある。わたしによって書かれた歴史にしなければならないと思った。」(同書43〜44頁より)
結局、彼の試みは成功したのでないだろうか。小山宗祐氏の両親も兄弟姉妹も亡くなったのに、1985年の墓参にまで京都へと出かけるようになったほど残された遺族から信頼されていたからである。そして、そのあと、一冊の小山氏の遺品である聖書が坂本幸四郎さんに託される。著者はその聖書を手にした感想を次のように書き留めていた。
「しずかに頁をめくると、いたる章句に青や朱の傍線が引いてあり熟読したことがわかる。各書の冒頭に、詳細な書き込みのある手製の頁がある。・・・さすがイラストの名手だけあって、楷書で細字をびっしり書きこんである。どれほど魂を注ぎこんで読みこんだかひしひしとつたわってきた。
この聖書はおそらく憲兵も特高も見た。しかし乱暴に扱われず損傷することなくもどされたのは、この聖書の傍線と書き込みに気圧されたからに違いない。彼らは宗祐の肉体を拘引したが、宗祐の魂の書は拘引できなかった。
聖書はいま小山宗祐牧師補の化身となってわたしのところにある。(※4)」(同書228頁より)
※1 自殺かそれとも拷問死か真偽を調べようと奔走された。これは簡単に結論が出る問題でないが、著者は可能な限り客観的文書の存在にあたろうとするが、当時の国家体制では結局無理ではなかったのではなかろうか。現在のロシアにおけるナワリヌイ氏の処遇を見てもわかる。
※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/01/blog-post_25.html
そして、意外や意外、その山崎氏が坂本氏のもとを訪ねていることが次のように述べられていた。「1982年(昭和57年)の夏、ホーリネス教団の東京聖書学院教授、山崎鷲夫氏が函館の拙宅にこられた」(同書202頁)山崎鷲夫氏の略歴をこうして間接的に知ることもできて、私の疑問も解けた。一方、この「鷲夫」という名前は、『荒野の泉』の訳者である父亭治氏の命名でないかと勝手に想像している。すなわち、旧約聖書イザヤ書40章31節「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」
※3 1969年の1年間、坂本氏は事件の真相をつかむために東奔西走するが、そのきっかけになったのは筑摩書房刊行の『戦後思想大系』の中の一巻であり、その本を通して「戦前が何であったか、さらに戦後の意味を考えることになった」(同書31頁)と述懐している。私が信仰の問題を抱えて、生死をかけて苦闘していた時は、まさしくそういう時代でもあったことを彼の行動に照らし合わせ、改めて深く考えさせられた。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html
※4 この感動的な文章に誰しも満腔(まんこう)の敬意を表明するのではないだろうか。しかし、それだけに私には坂本氏が小山宗祐氏の真奥の霊の姿も見ていただきかったという思いを禁じ得ない。それは彼が小山宗祐氏の生涯を振り返って、あとがきに次のように書いていることにも関連することである。
「小山宗祐牧師補が自殺し、遺品となった彼の聖書の手製頁の書きこみの中に、詩篇84篇6の『涙の谷を過ぐるとも』があった。どうしたのかここだけインクのシミが涙のようについている。涙の谷、それは権力に圧殺された民が、原始から今に続いて流した血涙が埋めたものである。
この民らを救うものが宗教であるのか社会の変革にあるのかわからない。涙の谷が、はるかな未来につづき、果ては人類滅亡の日をむかえるのではないかと恐れがある。」(同書231頁)
坂本氏が本の題名として引用した聖書84篇6節全文を下記に引用したい。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
坂本氏は聖書のみことばの前半部に注目され、またご自身の探究の結果をすでにご紹介したようにまとめられた。そのことに異論はあろうはずはないのだが、私は今ひとつ付け加えたいことがある。それはみことばの後半部である。「そこを泉のわく所とします」。これはまさしくキリスト者の抱いている「いのち」の喜びに、つながる大切なみことばであると思うからだ。だから、坂本氏には「宗祐の魂の書は拘引できなかった」と書くだけでなく、「宗祐の霊は拘引できなかった」と書いて欲しかった。私たちを霊的に指導してくださったベック兄は「歌うもの、踊る者、皆言わん。わがもろもろの泉は、汝のうちにあり」(詩篇87篇7節)といかなる時もイエス様に信頼するようにと、この文語訳の聖書の言葉を口癖のように言っておられたことを思い出す。これも同じ心であろう。さすれば、小山宗祐牧師補は若年ながら主にあって殉教されたのではないだろうか。
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