『荒野の泉』を読み出したのは大正の末期、原書の出版早々であったと思う。当時は仙台教会の牧師をしていたが、所属教団内部にも教会にも情勢の変化が生じ、私は内的に非常に大きな苦悩を感じていたが、本書によってこの霊性の危機から救い出されることができた。それが動機で本書の翻訳を始めその一部を戦前の雑誌「聖潮」に掲載した。また出版の許可については著者ミセス・カウマンが最後に日本に来られた時すでに与えられたのであったが、当時の社会情勢では出版することは不可能であった。しかもその当時の原稿は幸か不幸か戦災にあって消失してしまった。しかし戦後私はまたもやこれが翻訳を志し、教務の余暇を利用して訳業を進めた。巡回の時なども時を見出して訳した(※2)。さて訳了はしたものの、明治育ちの私の文章は現代の人たちに興味を持たせることは無理であった。いろいろな工夫をして見たがうまくいかないので、長男鷲夫夫妻に仮名遣いと文章の修正の一切を託した。・・・
昭和39年(1964年)12月
ここまで読むと、山崎亭治さんが『荒野の泉』(カウマン夫人著)を翻訳された動機と、その翻訳版が出版されるまでに、一時は原稿が焼失するなど紆余曲折があり、最後、令息の鷲夫夫妻の手を借りて日本語版が完成したことがわかる。英語版は1925年だということだから、すでに40年近い日月が経過していたことになる。
ところで、写真の右側にお載せした『宣教物語ーー地の極の開拓者』の著者は山崎鷲夫さんである。私がツィンツェンドルフ伯爵について朧げながら初めて知ったのはこの本が最初であった。ところがこの本は家の中に埋もれてしまって見つからなかった。その挙句去月中旬頃出てきた。私はその本の叙述を読みながら、著者は全然経験もしないことをどうして書けるんだろうか?原本があり、それを翻訳しているのでないかとさえ思った。ただ本には前書きも後書きもないから、私の勝手な推測に過ぎない。それとは別に一番後ろに刊行月日が昭和16年(1941年)1月1日と記されていることが私には最も印象深かった。なぜなら翌年(1942年)の6月26日、この父子は治安維持法違反の容疑で他の多くの人々と共に逮捕されたからである(実際は戦後の10月に免訴になったのだが)。
そして、改めて我が蔵書を調べてみると、『祈祷の目的』(E,M.バウンズ著山崎亭治訳)もあることに気づいた。しかも山崎鷲夫さんの編集された800頁弱の大冊の存在があることも知るようになった(※3)。私は、今、この亭治さん、鷲夫さん父子の歩まれた時代を追い始めた。これが悲しくも「日本の宣教物語」の一つなのだろうか、という思いで。
※1 右側の写真を拡大して、西インド諸島の人が「両手を挙げて福音を待ち焦がれている姿」がイラストとして描かれているのを確認されたし。これがツィンツェンドルフ伯爵に引き入れられたヘルンフートの人々が最初に国外からの招きに応えて渡っていったことを記念するイラストである。他の四つのイラストもそれぞれの宣教地となった地をあらわしている。一番北にはエスキモーの人々の住むラプランドが示されている。
※2 山崎亭治氏は牧師、聖書学院の教師などを歴任され、1970年版の新改訳聖書の翻訳にも携われたが、新約聖書のヨハネの手紙の翻訳は山崎亭治さんの労作のようである。
※3 この本も40年ほど以前に購入して以来、今日まで全く開いたことがなかった。自分には無関係だと決めつけていたからである。だとしたら、なぜ購入したのかと問われるかも知れない。人生とは案外そういう面を持っているのでないだろうか。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(新約聖書 1ヨハネ4章8節〜10節)
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