2013年10月9日水曜日

目標を目ざして一心に走る(転)

アバディーン行きサルベージ船? エジンバラ港  2010.10.3
イエス様はゴルゴタで十字架におかかりになる前に、父なる神に祈って言われました。ヨハネ伝17章の24節

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

また、よみがえられ、昇天され、引き上げられたイエス様は弟子ヨハネに次のように仰せられました。黙示録3章21節。すごい、すばらしい約束です。

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 

イエス様とともに御座に着き、主なる神とともに永遠に支配する。これが、パウロの目ざしたまことの目的であり、報いであったのです。何という驚くべき、栄光に満ちた立場でしょう。人からの誉れは小さなものです。主なる神とともに永遠に過ごすという驚くべき光栄がわれわれを待っているのです。

第二番目のまことの報いを目ざすものは自分の持ち物を求めず、自分をむなしく致します。今読みました黙示録3章21節ですね

わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

と。このイエス様のみことばの裏に、わたしを模範として、わたしに従いなさい、という意味が含まれています。このイエス様の勝利の道を歩む模範は、有名なピリピ人への手紙の2章5節から11節までに書かれています。ちょっと読みます。

あなたがたの間ではそのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

主イエス様は主なる神のひとり子であられたのに、天におられたならば何の不自由もなく驚くべき祝福のうちに住むことができたのに、自分をむなしくし、しもべのかたちを取り人間の姿になって、そればかりではなく、己を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられました。イエス様は人の誉れも名誉も得ようとはひとときだに思われませんでした。また、イエス様は自分のものを求めようとは思われなかったのです。全く己をむなしくしておられました。イエス様は結果を数える奉仕でなく、ただ父に従順に従い、十字架の死にいたるまで従順であられました。

このイエス様の霊は父なる神にことごとく嘉(よみ)せられましたので、イエス様がよみがえられた時、父なる神はイエス様に一番高い御位をお授けになったのです。イエス様は今天の御位に座しておられます。しかし、ただ一人でそこにおられることを願っていません。イエス様が十字架にかかってくださったのは、信ずる者のひとりひとりがキリストの霊を持ち、御座に着くことができるようになるためでした。だからこそ、パウロはその道がどんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に続く十字架の道を自ら選びとったのです。この道は、パウロにとって決して気楽な散歩道ではありませんでした。それまで、彼はいろいろなことで苦労しましたし、悩みましたし、けれども、だからこそパウロはその道がどんなに恥と苦しみに満ちていても御座に続く十字架の道を自ら選び取りました。この道はパウロにとって今話したように気楽な散歩道ではなかった。

彼は、主に従おう、自分は別にどうでもいいという態度を取ったのです。パウロにとって栄光への道は孤独の道でした。なぜなら、小羊である主の行く道は恥とそしりとの道です。けど、恥とそしりとに満ちたこの道の終わりは栄光の御座の真ん中に続いているのです。

けど、十字架に敵対して歩いている者はこれと反対の経験をするでしょう。彼らの歩いて行く道は人の誉れと名声を求める道であり、彼らの求めている栄光はやがて恥とそしりに変えられることです。ピリピ書3章、もう一回読みましょうか。ピリピ書3章の18節ですね。

というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

十字架の道は恥とそしりの道です。イエス様は裸にされ、十字架につけられた時、群衆はイエス様を指差し「彼はわれわれと等しく人間ではないか、神の子だと言うのは偽りでないか」と思う存分譏(そし)り、あなどりました。通りかかった者たちは頭を振りながらイエスをののしって言った。「神殿を打ち壊した。三日後に建てる者よ。もし神の子ならば自分を救え。そして十字架から降りて来い。」民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った。「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト・選ばれた者であるならば自分自身を救うが良い」。兵卒どももイエスを罵り、「あなたがユダヤ人の王なら自分を救いなさい」。十字架にかけられた犯罪人の一人が「あなたはキリストではないか、それなら自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と言ったのであります。

十字架の道は恥とそしりの道です。イエス様は十字架の死に至るまで従順であられました。釘がイエス様を十字架につけたのではない、われわれ一人一人に対する測り知れない愛がイエス様を十字架につけたのです。私たちの近くに、真ん中におられるよみがえりのイエス様は私たちが十字架の敵であるか、または十字架をいとわず、恥も死もいとわず、すべてを主にささげているか、すべてをご存知です。

(私が日曜日、年少の友からいただいたみことばの一つはこのベック兄のメッセージの中に出て来るみことば黙示録3章21節でした。このメッセージを聞くより前に、すでに彼からこのみことばをいただいていたのです。何と感謝なことでしょうか。明日がこのメッセージの最後になります。)

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