2013年10月25日金曜日

刎頸の交わり(その1)

交わりに参加し、鳥かごから出て来たインコ Tさん宅で
表題は「ふんけいのまじわり」と読む。国語辞典によると「首を切られても悔いないほどの、生死を共にする親しい交際」とある。このような語彙はかつて田中角栄氏と小佐野賢治氏との交わりなどを表現する場合に使われていたように記憶する。

今週火曜日に定例の集会に出席して、そのあと二人の方とお交わりした。一人の方Kさんとは二回目、もうひとりの方Tさんとは三回目であろうか。KさんとTさんはお互いに初対面であった。私を介してのお交わりになった。ほぼ一時間ほどの昼食をともにするお交わりであった。お互いに主イエス様を若い時に信じ(Tさんは19歳、Kさんは25歳、私は27歳)、教会生活も送ったが、今は教会には集っていない。

あまりお互いの素性は知らない。ただ主イエス・キリストを救い主として信じ、永遠のいのちをいただいている確信のある者同士である。Tさんは1950年生まれ、Kさんは1947年生まれ、私が戦前だから一番年長になる。ここ二三年に集会に来られて知り合った間柄である。ところがいずれも教会を経由して来ているので、「宗教」の恐ろしさを体で体験している面々である。「宗教」にはだまされないゾという覚悟が互いにある。

談たまたま、その日の短いベック兄のメッセージの話になった。当日の題名は「もうちょっと」で第一テサロニケ4章13節から18節が引用聖句であった。「もうちょっと」とは主イエス様が再び来られるのは、もうちょっとという意味である。そのような話になったとき、Kさんが頭を抱え込んで言い出した。「ちょっと、待って。俺は毎日これは自分が正しいと思ってやっているけれど、ほんとうにそうでなかったらどうしよう。主に裁かれ、お前なんか知らないと言われるかも知れない。やはり『主よ、これはどうなんでしょうか、まちがっていないでしょうか、教えて下さい』と祈って行動しなければ」

あとでわかったのだが、Kさんは仕事が忙しく、やっとの思いで集会場に来たのだが、メッセージも証も聞いていない、私に会いに来たのだと言う(私が集会に来ているかどうかも分からないのに・・・)。その彼がすぐそのように反応したことに私は正直驚いた。メッセージをじかに聞いていても私はそうは思わなかったからである。彼の純粋な信仰に目を見張らされた。

Kさんも、Tさんも、今のご時世、年金生活を送るわけに行かず、毎日生活のために日曜日もなく働いている。たまたまご両人の時間が割ける日がこの日だったと言うわけだ。集会出席は年に数回ではないだろうか。そしてそれほど会う機会のある方々ではない。しかし、ひとりひとりその日は示されて集会場に集まって来たのだ。Kさんにいたっては前言したように、集会場をあとにしようとするとき、誰かがあなたのことを捜していましたよ、と言われて大ぜい集まる人々の中でやっとお会いできたのであった。

Kさんとは昼食のあと別れ、示されてTさんのお宅に急遽行くことにした。もちろん前もって決まっていたことではない。家には病気の奥様が伏しておられるとは聞いてはいたが。目的は彼にパソコンとネットを教えるためであった。でも、それだけでなく彼の純真な気持ちと交流をともにすることに喜びを覚えたからである。そして奥様ともお会いできた(普通、そのような訪問はすべきでなく、先方も突然の珍客はいくら何でもお断りしたくなるものだ、しかしそんな気配は感ぜず、そこでさらに一時間ほど豊かなお交わりになった)。

キリスト者とは不思議な民だ。「刎頸の交わり」とは主にある兄姉の交わりにこそふさわしい。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3・16)

0 件のコメント:

コメントを投稿