2013年9月30日月曜日

真夜中すぎ(4) ポーロ・B・スミス

いえの ひとは かなしんで ないていました(絵本聖書より)
人間の生涯において、夜中の時刻を打つ第二の出来事は、その人自身の死であります。彼の心臓がとまり、血が流れなくなり、呼吸が止んだ時に、その人が神に立ち帰る機会は失われてしまうのです。

ある人々は、すでに人生のうち「七十年」(詩篇90・10)の域を出ているのです。これらの人々は、すでに人生の峠を越え、墓が見える所に来ています。これらの人々は、ほかの人はいざ知らず、余す時が短いことを認めています。またある人々は、命取りの病にとりつかれており、自分も医者も、ぜんぶおしまいになるのは、ただ時間の問題であることを知っています。

あなたは、年をとっていようが若かろうが、健康であろうが病にとりつかれていようが、「死の陰の谷」(詩篇23・4)に住んでいるのです。あなたは、神が永遠の時より切り離された、有限な時の谷間を旅しているのです。この谷間では、死が管理者です。いついかなる時でも、あなたを犠牲者にすることができるのです。

いつかあなたは死なねばなりません。それはいつであるかわかりません。あるいは、今日であるかもわかりません。本当の意味であなたに属している時は、今この現在だけです。来年は神に属しています。来月は神に属しています。明日は神に属しています。あなたの次の時間は神に属しています。あなたのものである唯一の時間は今です。決心をすることのできる唯一の時は今です。キリストを受け入れることのできる唯一の時は今です。あなたは、あなたの人生における「今」を支配するのです。そして神が将来を支配なさるのです。

そのために、聖書は「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント6・2)と言っているのです。そのために神は、われわれの一人一人に「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるのか、あなたは知らないからだ」(箴言27・1)と警告しておられるのです。戦争と事故と突然の死がいつ襲って来るかわからないこの時代にあって、われわれは、この章句を次のように解釈することができるでしょう。「次の時間を誇ってはならない。一刻のうちに何がおこるかを知ることができないからだ」。

もしあなたが、今イエス・キリストを救い主として受け入れないなら、明日という日はこないかもわかりません。ひとたび死があなたを犠牲者としてしまうなら、あなたが神との正しい関係に入る機会は、過ぎ去ってしまうのです。夜中の時刻が打ち、そしてあなたは外に取り残されるのです。

夜中の時刻を打つ原因となる、もう一つのものがあります。キリストの再臨はこの世代にはおこらず、したがって、この世代に影響を及ぼさないかもしれません。またわれわれは、この地上において長い間生き延びることができるかもしれません。しかしながら、余りにもしばしばキリストを斥けることによって、みずから夜中の境界線を踏み越えることがあり得るのです。

ほとんどすべてのキリスト者の働き人は、主イエス・キリストを受け入れる多くの機会があったにもかかわらず、彼を拒み続けたため、ついに反応を示すことのできない点に到達したと思われる、幾人かの人々を思い起こすことができます。

それは、このようにしておこるのです。まず最初に福音を聞いた時、その人の心は、ふしぎにかき立てられます。その人を神のほうへと引き寄せる、強い罪の自覚の霊が働きます。また神の御霊は、彼が主イエス・キリストのほうへ足を向けるように、強く言い伏せられます。彼の内にあるすべてのものは、彼を促して、神の招きを受けさすかのように思えます。そして彼が招きを受けることは、この地上で最も簡単なことのように思われます。ところが、なんらかの理由のために、この最初の場合、彼は認罪をもたらす神の御霊の力を拒み、心中の争いを経験しながらも、イエス・キリストに向かって最初の「ノー」を発するのです。この場合、斥けることが困難で、受け入れるほうが簡単なのです。

福音を次の機会に聞いた時、彼の上に再び大きな認罪の霊が臨みます。神の御霊は、再び彼の生涯にお働きになります。彼の内にあるものは皆、再び彼を押し出すように促します。この時もまた、神に近づくことは簡単に思えます。しかし、こんども彼は、彼の生涯の中に働くサタンのさしずに耳をかし、「ノー」と言うのです。この場合、斥けることは、前にくらべて少しばかり簡単になり、一方受け入れることは、少し困難になって来ます。

それからも、彼は幾度も幾度も福音を耳にします。そのたびに、魂はあがきます。神の御霊は、罪の自覚をもたらします。そしてサタンは、反対のほうへとひっぱるのです。ところが、幾年もの間決心を変えないでいると、「いいえ」と斥けることは実にたやすくなり、反対に「はい」と受け入れることは、いっそう困難の度を増して来るのです。そうなれば、御霊の働きを斥けることは、日常の茶飯事となり、御霊の働きに身をゆだねることは困難になるのです。

(『真夜中すぎ』11〜15頁より引用。)

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