はけの森美術館の小窓から 2013.8.8 |
光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
光よりもやみを愛する人々がいる、とあります。
光である救い主について、もうすでに旧約聖書の中でイザヤは書いたのです。9章の2節ですね。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
と、あります。60章の2節。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。
と、あります。光である主イエス様が来られたから希望があります。イエス様は光としてわれわれの暗やみの中を照らしてくださり、罪を明らかにしてくださいます。しかし、イエス様は罪を赦す(お方)、(罪を)明るみにされるお方だけではない、「救い」を成就してくださいました。
パウロの回心について、次のように書いてあります。彼はもちろんイエス様を知ろうとしなかったし、イエス様を信ずる者を迫害する男でした。けれども彼はいっぺんに変えられました。使徒行伝の9章3節に書かれています。
ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
このひとことばによって彼は変わりました。どういうショックを受けたのか想像できません。今までの持っていた目的は間違っていたし、今までの考えたことは、もちろん、とんでもないことだったし、まことの神に仕えようと思ったけれど、知らないうちに悪魔の道具になってしまった。どうしよう、どうしたらいいのと聞くようになったから、彼は世界一の伝道者になったのです。
光に照らされた時、彼は初めて自分のやっていることはとんでもないことであり、全く悪魔的であり、的はずれの行ないであると、いっぺんにわかったのです。同じようなことを経験した人々はいっぱいいます。たとえば旧約聖書をヨナ書を見ると、開かれた口によって主の御顔を必死になって避けたようなという預言者は明るみに出されました。前よりも主に用いられるようになったのです。あるいは女中の指差しによって、ペテロと言うイエス様を裏切った弟子を明るみに出されました。遣わされた預言者ナタンをとおしてダビデ王を明るみに出されたのです。
私たちはどうでしょうか。明るみに出されたことがあるのでしょうか。主によって見つけ出され、明るみに出されたことを望むなのでしょうか。すべてを隠さず告白しようではないでしょうか。イエス様の呼びかけとはいつも同じです。
わたしのもとに来なさい。わたしは光そのものです。
光のもとに行きたくない人は、自分の過ちを隠す者であり、正直になりたくない思いの現われです。すなわち不幸への道です。人間にとってもっとも必要なのは光に照らされること、罪の赦しを得ること、そして光であるイエス様との交わりを持つことです。イエス様を信ずることとは、取りも直さず光に来ること、すなわちイエス様のみもとに行くことです。そしてイエス様のみもとに来る者はまちがいなく受け入れられ、またその最後は赦されます。ヨハネはその第一の手紙の中で、皆さん暗記していることばですけれど、次のように書いたのです。ヨハネ第一1章7節。素晴らしいことばです。
もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
御子イエスの血は! すべての罪からきよめる。まことの満足の秘訣は暗やみから脱出して光であるイエス様のみもとに行くことです。イエス様はすべてを新しくしてくださいます。ですから、イエス様の呼びかけとはいったいどういうものなのでしょうか。すなわち、やみの中を歩かなくてもいい、何も隠さなくても結構。わたしに従いなさい。光であるわたしに従う者は決してやみの中を歩むことがない。いのちの光を持つ。いのちの光とはもちろんイエス様ご自身であります。パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書き記したのです。5章の8節ですけれども
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
と、あります。 あなたがたは光となったから、だからOKなのではない。あなたがたは主にあってのみ光である。すなわち主であるイエス様から離れて、自分勝手な生活をすると、自分の知恵や自分の力に頼るといっぺんに駄目になります。光である主とつながっている時にのみ、主は光である、とイエス様ははっきり言われました。わたしを離れてはあなたがたは何もすることができないし、わたしから離れたらあなたがたは光じゃない。暗やみです。またコロサイ書1章13節にも次のように書き記されています。
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
「暗やみの圧制」と「御子イエス様のご支配」とありますが、何というちがいなのでしょうか。ここでも同じことが言えます。もし、私たち信ずる者がイエス様に頼らなければすべての努力はまったく無駄であり、的はずれの行動です。将来についての主の呼びかけとは始めに(司会者に)読んでもらいました箇所※の中に書かれています。テサロニケ第一の手紙4章ですが、もう一回読みます。16節と17節だけです。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
何があってもこれだけ毎日覚えるべきです。 「私たちは、いつまでも主とともにいることになる」。考えられない栄光、将来になります。同じ内容の箇所はコリント第一の手紙の15章の中で次のように書かれています。コリント第一15章の51節52節。今のテサロニケ第一の手紙4章と全く同じ事実についての箇所です
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
最後の58節。
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
「主にあってむだでない」と約束されています。
(※テサロニケ第一4・13〜18を指す)
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