2013年9月23日月曜日

主は近い(上) ゴットホルド・ベック

昨日、ある教会の表看板を見たら、堂々と10月22日10時半からと日時が記され、「定められた時」とメッセージの題名が記されていた。長く暑かった夏から涼しい秋に向かって来た今日この頃のこと、思わず9月22日 と書くべきところを10月22日と書かれ、そのまま教会の看板として出されたのであろうか。思わず苦笑せざるを得なかった。

冒頭の写真はかく言う筆者が9月11日に行なわれた家庭集会の当日に書いた聖句である。まちがいはないであろうか。その後の台風騒ぎでこの看板聖句の紙は一日にして、強い雨風の結果、四散してしまった。しかし以下のベック兄のメッセージによると「神のことば」は四散しないと語る。果たしてどういう意味でそう言えるのだろうか。以下は当方の聞き書きによるメッセージである。

ヨハネ黙示録の中で、次のように書かれています。1章の8節(です)。

神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

(イエス様は)初めであり、終わりである。始めのない、終わりのない永遠なる方である。そして、黙示録の最後の22章の20節に、初代教会の心からの願い・祈りが書かれています。

「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

「主イエスよ、来てください」という祈りこそが、もっともたいせつなのではないでしょうか。結局、イエス様の再臨だけが、望みを、希望を与えるのではないでしょうか。イエス様再臨なしの世界は、もうめちゃくちゃ、終わり。けれどもイエス様は当時弟子たちを励ますために言われました。ヨハネ伝16章の33節です。

あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

結局、将来はどういうふうになるのでしょうか。次に起こることはいったい何なのでしょうか。この不安が、今の時代の多くの人々を重苦しく、意味なく押さえつけて、またしびれ(?)させているのではないでしょうか。次に何が起こるのでしょうか。

この質問に対してわれわれに答えようとするものはだれなのでしょうか。確かに多くの人々は自分たちの頭で、この謎を解こうとします。けれど、結果は別のものになります。また、ある人々は易者や星占い、またトランプ占いによって、結局知らないうちに悪魔に尋ねています。その結果は魔術や悪魔の力に落ち込むようになります。何の希望も、何の喜びも湧いて来ません。

私たちはだれに尋ねようとするのでしょうか。将来に関しては、ただひとりの権威あるものがあります。言うまでもなく聖書です。私たちは、この神のみことばを、聖書の権威を認めるべきです。真理そのものであり、うそを知らないイエス様は言いました。マタイ伝24章。将来のことについて、このマタイ伝24章の中で多くのことが書き記されていますが、一節だけ読みます。24章の35節。

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

決して滅びることのないみことばに頼ることこそがもっとも大切なのではないでしょうか。天地はいつか滅び去る。いつになるかわからない。けれども、主のことばこそが永遠に滅びることがない。マタイ伝の中で、いわゆる山上の垂訓の中で 、イエス様は同じようなことばを言われました。マタイ伝5章の18節。

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

あらゆることばだけでなくて、あらゆることばの綴(つづ)りもすたれることはない、とイエス様は言われたのであります。私たちの聖書の主張が真実であれ、すべての人がこのことばを信じないならば、その人は主と人間に対する犯罪人です。この聖書の主張が真実でないならば、聖書はわれわれにとって何の役にも立たないものです。聖書は聖書自身の権威に思い迷っていることになるでしょう。もしそうならば、私たちは聖書のことばをもはや信ずることは出来ません。われわれの理解力は、誤った聖書より、より高い権威となります。主のことばをふくんでいる、けれども、神のことばでない聖書は、われわれの信仰の岩のような基礎となることは出来ません。

けれども、主に感謝したい。なぜならば、主のことばに刃向かう武器はまだうまく行ったことがない。成功したことがないからです。完全な欠けたところのない聖書として、この聖書を信じている人々だけが、反対する人々に対して、この主のことばをもって立ち向かうことができる、つねに勝利を得ることができます。私たちは自信をもって将来を聖書に尋ね、聖書に目を光らせたいものです。

二千年前にイエス様は嬰児(みどりご)としてわれわれを救うために、この世に来られました。けれども、近いうちに同じイエス様はまたお出でになります。今度は嬰児としてではなくして、救いを成し遂げるためではなく、今度は王の王として、あるいは花婿として、主に受け入れられた者たちを迎えるために、またお出でになります。イエス様は証として言われたのであります。ヨハネ伝12章の46節。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。

イエス様は「わたしは光です」と言えました。すなわち、イエス様はいわゆる宗教家ではなく、「光」です。昨日も今日もいつまでも、イエス様は光そのものです。イエス様は愛と平和と希望と慰めの光です。イエス様を光として知るようになった者はだれでも、その人の人生の中ですべてのものが新しくなります。結果として前向きに生活することができます。

確かに今日の多くの人々は暗やみの中に生きています。すなわち、何ゆえに(自分たちが)この地上に存在しているのかを知らないし、自分たちの人生の内容がなんであるかを知らないし、死後にどこへ行くかもわからない。そして、これらのことを知らない者は暗やみの中で手探りするような暗中模索の人生を過ごしています。

主のことばの光を通して、私たちがほんとうはどのような者であるかを認識することができます。主の判断、人間に対する主の判断とはどういうものでしょうか。ロマ書14章の中で一文章で表されています。ロマ書14章23節ですね。

(義人はいない。ひとりもいない。善を行なう人はいない。ひとりもいない。)信仰から出ていないことは、みな罪です。

この最後の文章はちょっと大変ですね。「信仰から出ていないことは、みな罪です」イエス様とつながっていなければ、人間は何をやっても間違っている。的はずれ、罪です。ここで信仰とはイエス様とのつながりを意味しています。したがって、イエス様とのつながりを持っていない状態は罪であると言うことができるわけです。

光に照らされることを拒まない人、そして過ちを犯す者として、どうしようもない者として、まことの光であるイエス様のみもとに来る者は拒まれません。必ず受け入れられます。その人は受け入れられる、永久的に救われます。光に来る人は罪から離れます。聖書は次のように言っています。コリント第二の手紙の6章14節です。一文章だけですが。

光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

ただイエス様お一人だけが言えたのです。すなわち、わたしはまことの光そのものです。われわれ人間はやみであり、あらゆる人間の内側には暗さと不純と邪(よこしま)と偽善があります。

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