2013年9月25日水曜日

主は近い(下) ゴットホルド・ベック

はけの小路 2013.8.8
主に頼ると、私たちは守られ、導かれ、満たされ、用いられます。 主に頼らなければ、主は私たちを守ることが出来ないし、導くことも出来ないし、満たすことも出来ないし、用いられ得ないのです。

パウロはローマの刑務所の中でピリピにいる兄弟姉妹を励ますために手紙を書いたのです。このピリピ人への手紙の4章5節に非常に短いことばが出て来ます。

主は近いのです。

すなわち、イエス様の再臨を喜びつつ生活しなさい、とパウロは心から願ったのです。やがて行なわれる主の再臨に対して心の備えをすることが要求されています。主の再臨が近いということを喜びつつ、生き生きとした信仰生活を送っている信者がちょっと少ないなのではないでしょうか。イエス様は今日来られるかも知れない。今日はこの地上での私たちの最後の日となるかも知れない。こういう思いをもって今朝起きた人はいるなのでしょうか。

生まれ変わった人は誰ひとり主の再臨を疑いません。というのは、それが新約聖書の中だけでも430回書き記されています。430回、イエス様の再臨について書き記されています。けれども、問題は私たちが主の再臨を待ち望みつつ生活しているかどうかということです。ただイエス様の再臨を信ずるだけじゃなく、日々毎日主の再臨を待ち望みつつ生きることが考えられないほど大切です。

私たちは二三日自分のところに泊まりたいという特別なお客さんが来るのを待つとき、特別な準備を行ない、掃除したり、買い物に行ったりするでしょう。結局準備します。けれども私たちは大宇宙を創造され、尊い代価を払ってわれわれを贖なってくださったイエス様を待ち望んでいます。もし主が明日いらっしゃるということが分かれば、最近出した手紙の内容を書き直したり、悪口を言われ興奮したようなこととはちがった反応をしたことでしょう。ヨハネ第一の手紙3章3節に、ヨハネは当時の信ずる者に次のように書いたのです。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。 

別のことばで表現するならば、私たちは主の再臨を意識しつつ待ち望んで生活しているならば、もっと注意深くなり、光の中を歩むでしょう。それは今まで以上に待ち望みの生活をしなさいという意味です。イエス様の再臨を待ち望んでいない人々は結局この箇所を見ると不従順です。不従順は罪です。主とあなたの間の隔たりの壁のようなものです。今まで以上に主に喜ばれる生活をしなさいという意味です。それは自分自身の気に入るようなことだけをするのじゃなくて、また人の気に入られるようなことだけをするのではない。ただ主のみこころに叶うことだけをしなさいとあります。パウロはそういう願いでいっぱいでした。彼はガラテヤ書の1章10節に、次のように書いたのです。すばらしい証です。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

もうひとつ、今までより以上に、まだ救われていない家族・親戚・知り合いの人々のために祈り、かつ戦いなさい、という意味です。イエス様はわれわれに答えようとなさっていますけれど、いつもわれわれの祈りに対して答えようとされています。それを考えると、祈ることとは考えられないほどたいせつです。救い出しなさい。失われている魂の救いのために行きなさい。これは(新約聖書で)手紙を書いた人々の切なる呼びかけでした。

主の愛の対象である失われた魂の救いのために燃えている愛が要求されています。もし私たちは光の中を歩むならば、他の人々もまた主の愛を経験し、やみから光へと移され、あらゆる束縛から主の解放へと移されることがわれわれの関心事となります。イエス様について書かれています。マタイ伝9章36節

(イエスは)群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 

私たちは正直に自らに尋ねてみましょう。私たちが心の支えもなく、生き甲斐のある人生の目標もなく、平和とまことの喜びのない人々を見ると、そしてまた羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている人々を見ると、私たちもまた心を動かされるなのでしょうか。あるいは無関心なのでしょうか。火の中からつかみだして救い出しなさいと聖書は言ってます。魂を獲得することは、すなわちイエス様だけを紹介することは、もっとも緊急を要する使命です。人は地獄に行かないように救われるべきです。ここでは世界観や宗教性ではなく、永遠の救いか、永遠の滅びかが問題となります。

光のうちに歩む兄弟姉妹は、もはやまだ救われていない大ぜいの人々に対して無関心でいることは出来ません。パウロは、パウロの証とは、次のわれわれの証ともなるべきです。コリント第一の手紙9章の16節です。

私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

そして22節。

(私は)すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

最後にパウロによって、御霊の願い、また呼びかけを読んで終わります。コリント第二の手紙の7章の1節です。

愛する者たち。私たちはこのような約束を(すなわち、イエス様の再臨という約束を)与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。 

私たちは自発的に断固としてこの態度を取るときにのみ、光のうちを歩み、また主に用いられるようになります。意識的に主にだけより頼みましょう。主の再臨を喜びながら生きましょう。失われている魂の救いのために祈りましょう。イエス様への待ち望みがわれわれの毎日の生活を決定するものでなければならない。私たちが救われたことの理由の一つはイエス様を待ち望むということのためです。

(以上で9月11日の家庭集会でのメッセージの聞き書きは終わりです。次回の家庭集会は10月9日午前10時半からです。)

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