そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。(新約聖書 マタイ25・1〜6)
「夜中」という言葉は、聖書全巻のうち、わずか14回しか出て来ません。この言葉は、いつでも、救いとか審判とか、顕著な神の力の顕現に関して用いられています。しかし、この言葉が、これらの思想に関係なく出て来る例外が、ただ一度だけあります。
「夜中」という言葉が、最初に聖書に出て来るのは、イスラエルの民が、過越の祭をはじめて取り行なった、あの旧約聖書の物語の中であります。エジプト人の間にいるういごを滅ぼすため、神が死の御使いを送られたのは、夜中でありました。イスラエル人の家の柱には、血がつけてあったので、死の御使いは、イスラエル人を殺さずに彼らの家々を過ぎ越しましたが、それはやはり夜中でありました(このあと、士師16・3、使徒16・25、使徒12・29の言及があるが略す)。
このように「夜中」という言葉は、聖書全巻を通して、ひじょうに重要な意味を持っています。この言葉が、前後に関係なくひょっこり出て来るのは、ただ一度だけです。(略)この言葉は、マタイによる福音書25章に記録されている、10人のおとめの物語の、いわばてこの支点となっています。
この物語に出て来る「夜中」について、私は三つの質問に答えてみたいと思います。ここでこの言葉は、どのような意味を持っているでしょうか。夜中すぎまで残っている人々のうえには、どのようなことが起こるのでしょうか。われわれの生涯において、夜中の時刻を打つものは、何でしょうか。
もちろん、ふつうの意味において、夜中という言葉は、一日の最後と次の日の始まりとを区切る一点を指します。(略)世間一般に言っても、この夜中という言葉は、たいてい終りと始めとを意味しています。
極めて現実的な意味において、夜中の時刻と考えることのできる、ひじょうに多くの出来事があります。(略)年寄りの人は、隠居の時が来ると、夜中を迎えることになります。その人は、余儀なく、若かりし日々を振り返ってみるでしょう。多分、青年時代の夢と抱負、生涯において達成しようと思っていた事柄を、思い浮かべることでしょう。しかし今や、峠を越して下り坂を降りるようになり、自分の夢が実現されたか、それともついに実現されなかったかの、どちらかであることを知るのです。(略)夜中の時刻が打ったのです。働く時はすでに終わり、隠居の時が始まりました。
しかしながら、私は今、人々の生涯に起こる、これらの夜中について考えているのではありません。私が今重大な関心を払っている夜中とは、マタイによる福音書25章に記されている時刻のことです。今まで述べた、ほかの意味での夜中も重要な意味を持っています。しかし神の夜中は、人生において起こり得る、最も厳粛で、最も真剣な、また最も重要な夜中であります。それは、神との正しい関係を持ち得る人間の機会に終止符を打ち、神と共に、あるいは神なくして送る、永遠の始まりを告げるのです。
これは、絶対に避くことのできない、また逃れることのできない、人生における夜中であります。あなたの心臓が動き、また血液が血管の中を流れているのと同じほど確実に、いつの日かあなたの生涯に、この夜中の時刻が打つのです。そして、あなたが神と正しい関係を持ち得る機会は終わりを告げ、あなたは、救われているのか、それとも失われているかの状態で、永遠を迎えなければならないのです。
(『真夜中すぎ』いのちのことば社1957年刊行1〜6頁まで抜粋引用。著者はオズワルド・J・スミス氏の令息である。)
2013年9月27日金曜日
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