野川堤内にうっそうと生い茂る雑草 2013.8.5 |
人々がこの野に開拓の鍬をふるいはじめたのはきわめて新しい。中には府中のように古い集落もあるが、大半は江戸時代に入ってからである。それ以前の武蔵野の景観がどのようなものではあったかはほとんどわからない。ケヤキが古くからこの野の木の一つであったことは、府中大国魂神社のケヤキ並木などでも察せられるのであるが、そのほかにもいろいろの木があったであろう。昭和10年すぎに保谷というところに居たころにはマツの木もずいぶん目についた。スギもまた多かった。それらは今日ほとんど姿を消している。
多分この野に住んだ人たちは大きな木の茂っているところはそのままのこしておいて、その他の所は火をかけて焼いて畑として利用したり草刈場としつつ利用していたものであると思われる。そういう野を拓いて多くの村が発達するが、野は風が強いために、すぐ木を植えて防風の備えにしたのであろう。だから木の大きさで家の歴史を見ることができた。その木は防風のためばかりでなく、家を建てかえるときには利用したようで、家の建てかえもだいたい100年くらいたつとおこなわれたのではないかと思われることは古い屋敷にあるケヤキを見ると、だいたい250年、150年、50年くらいの三段階になっているものが少なくなかった。(中略)
しかしそれらの木が次々に伐られてゆくようになった。一つは家を明るくするためであったという。いま一つは道をひろげるためであった。武蔵野の道は街道とよばれるものを除いては荷車の通る程度のものが多かった。ところが住宅地を予定せられる道は次第にひろげられ、曲がっているものもできるだけ真直ぐにしていった。そうした道は太平洋戦争がすんでから多くつくられた。(中略)
農民の開拓は自然を相手にし、自然を利用するものであった。畑をひらいてもそこに植えるものはやはり木や草のような植物であった。原始の自然から人手の加わった二次的な自然へかわっていったのであるが、戦後あらたにこの野に住みついた者は農にいそしもうとする者でもなければ、この自然を守ろうとする人たちでもなかった。大切なことはより便利に住むことであり、より合理的な生活をそこに見出すことであった。
私の家から駅まであるく道は木の多い道であり、竹薮などもあった。そういうところへ新しい住宅がならびはじめたのは、その土地を百姓たちから買いとって家を建てていったのであろう。竹薮ははじめ手入れがよくゆき届いていたが、いつの間にか放置せられるようになった。ある年その竹薮を蔓草が覆いはじめた。そして蔓草のいきおいはすさまじく、アッという間に竹薮をおおいつくしてしまった。そして竹が枯れていった。自然はそのままにしておいても荒廃するものである。武蔵野を美しからしめるために働いた人たちが手をひきはじめ、一方この自然に無関心な人たちが新しく住みつくことによって、この野は大きくかわろうとしている。農民の開拓も、今日の都市化も、開拓にはかわりないのであるが。
全文を紹介できないのが残念だが、著者は旧版のあとがきで、「私はこの書を書きつつ、この書が武蔵野の挽歌のようになるのをどうしようもなかった」と書かれている。
神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2・15〜17)
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