これはまた何と素晴らしい花であろうことよ。昨日、病院の玄関先で家内が指し示した花だ。調べてみると「ヒトツバタゴ」とあり、モクセイ科とあった。改めて今朝写真を取り出して眺めてみた。今日の日にふさわしいと思った。
毎朝、食事のたびに私は「今日は何日、何曜日」と言うことにしている。そして『日々の光』という聖書のみことばを朗読し、お祈りする。今日はその言で行くと「4月26日」である。そう言った途端、家内が「26日?結婚記念日じゃない!」と言った。
ここ数年家内の方からこの日に気づくことが少なくなっていた。ところが今朝はなぜかこのような会話になった。感謝なことだ。改めてこの花を見つめてみると、純白のウエディングドレスに身を包んでいた家内を思い出す。よくぞ55年の結婚生活に耐えて今日にまで至ったか感謝に堪えない。
昨日は主にある友から『山路こえて』と題する歌集を贈っていただいた。千数百首から構成されていた。その歌を家内に読み聞かせた。四季折々の花々が巧みに詠み込まれている。その友とは10年近く親交があった。様々な事情があり、ここ数年交わりを閉ざしてしまった。
そんな私に友は屈せず便りを寄越してくださっていた。この数日その友に一言私の気持ちをお伝えしたいと思っていた。以心伝心と言うべきか、昨日この400頁近い歌集が送られて来た。急いで読み出した。そのうちに、読み方が分からず、声に出して読まずにおれなくなった。不思議なことに声に出して読んでみるとリズミカルに文意をとらえることができた。何より友の肉声に接する思いがした。
さらに驚いたのは家内が作者が詠み込んでおられる様々な花々に大変な関心を示して耳を傾けたことだった。いや、花に疎い私の方で家内にそれぞれの花の名前を挙げ、説明してもらう、そして再び歌に戻り、さらにその歌をしみじみと味わう余徳に預かることができた。
まだ全部読んだわけでないので、その作歌の感想を述べられないが、折角だから、この日の記念に二、三彼の歌を紹介する。
卯月の晦日(つごもり)にして奥美濃は青葉に絡む藤の花房
竹叢(たかむら)の葉陰に咲ける山吹の花ひそやかに季(とき)は移らふ
「行く春の」芭蕉の句など思ひつつ美濃の山路を過ぎ行きにけり
最後の歌は端なくも、前回の我がブログにそっと書き加えた芭蕉の句が引用の形で詠まれていた。不思議なことだ。
一方、ここ2、3年お会いすることのなかった家内の50年来の親しい方が久しぶりに訪ねて来られた。85歳になられると言う。その方との屈託のない会話に終始している家内の自然な姿に接し、友の作歌を私の朗読に合わせてともに味わった姿と重ね合わせ、静かな喜びを味わうことができた。
最後に今朝の『日々の光』の冒頭にあった聖句を紹介しておこう。これこそ主が気づかせてくださった、主が仲立ちとなって私たち夫婦を常に導いてくださる大きな愛の表出だ!
あの方(=主イエス・キリストのこと)の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださる。(旧約聖書 雅歌2章6節)
結婚記念日、おめでとうございます。二人の日常の描写に思わず笑顔になりました。
返信削除一日一日を大切に夫婦で歩いていけますように!
いつも小さな者に声をかけてくださりありがとうございます。午前中、旧市役所の前を通りましたが、55年前に建設された春日部市役所は物の見事に壊されつつありました。関西出身で全く「春日部」という地名も存在も知りませんでしたのに、1969年(昭和44年)の最後のクリスマス礼拝に、当時仕事のため栃木県の足利に住んでいた私は意を決して出席しました。それは婚約者に何としてでも教会に行って救いを得て欲しいと望んでいたことに、私が当惑しながらも、初めて自らの意思でその要請に応えるべく探し求めていましたら、この街に当時婚約者が出席していた京都の教会と同じ流れの教会があることを誰に言われるまでもなく知り、出席したのがそもそも春日部市との出会いの初めでした。その翌年1970年の3月に京都の教会で洗礼を受け、その教会で結婚し、この春日部の地にある教会にわざわざ足利から通い出席するようになりました(東武伊勢崎線で足利と春日部は一本に繋がっていました!)。ところが、今度はその20年後、1990年にそのようにして選んだ教会を退会して今日建物としての教会を持たないまま、日曜日ごとに集まる場を求めて、多くの主を信じている方々と共に、主なる神様を礼拝しているのです。変わらないのは「春日部市」だけになってしまいました。これからどのような歩みが備えられているかは皆目わかりません。55年前健康であった家内も病を得るようになりました。今更ながら、結婚式の誓約「病めるときも互いに労り合う夫婦たれ」との金言に耳を傾けざるを得ません。それは自分の力では到底できませんが、それこそ主イエス様の腕(かいな)の力に支えながら歩みたいと思っています。迫田さんも、ご自身の人生のうちに働いておられる主イエス様の愛に気づかれ、変わらない腕に支えられなさいますように。
返信削除信仰は強制されるものではない、と思っています。
削除私の周りにも、(キリスト教ではないけれど)神や仏を熱心に信仰している方はいます。否定するものではありません。でも今現在の私は、何かにすがるという気はありません。自分自身と向き合って、自分に恥じない生き方をしていきたいと思っています。