2025年4月7日月曜日

春眠、夢を覚え


 四月も早や一週間が過ぎた。このところ連日のように古利根川縁は桜を愛でる老若男女の人々で賑わっている。溢れかえるほどではないのが、良い。皆それぞれじっくり桜を鑑賞できる。素晴らしいことだ。

 大抵、ほとんどノルマと化している、一冊の本(※)の書写に倦み疲れた頃を見計らって家内を誘い出し古利根川まで出かける。ある時は自転車で、ある時は徒歩で。徒歩だとかれこれ四キロになる。少し負担がかかるので、自転車で出かけ、古利根川の一周で我慢する時もある。まあ、半々である。82歳と79歳のコンビだから、果たしてこの先何年くらいこのような生活を続けられるのだろうか。

 漱石は確か、「午前の創作は午後の愉悦をもたらす」とかどこかで言っていたように思うが、私にとっては午前中の書写と散歩が、彼の「創作」にあたる。午後はゆっくり寛ぐ、それは彼の「愉悦」にあたる。

 さて今朝は不思議な夢を見た。ある集まりで音楽会が催された。指揮者として「山田耕筰」氏がタクトを振るから、という前宣伝であった。果たせるかな、彼がやってきて、演奏会は始まった。曲目はヘンデルであった。その音色は何とも言えない音色で、その音を聞きながら、ヘンデルにはこんな作品があったのだと独り感動しているのだ。感動していると言ったが、私はと言えば、演奏会の隣室の大きな部屋で寝そべって聞いているのだ。だから当然、指揮者である山田耕筰氏の顔はわからない。演奏される音楽だけが聞こえてくる。

 一体、これは夢と言っていいのだろうか。音が聞こえるなんて。しかも振り返ってみるとその音楽はサンサーンスの交響曲第三番の曲中、オルガンの全奏の前後(?)に奏でられる曲に似ているが、それよりもはるかに落ち着いていて、深みのある、えも言われぬ曲想だった。そんな夢の話を家内に話したら、「随分と高尚な話ね」と言った。私もこんな夢を見るのは初めてだ。まして音楽の素養がなく、むしろ音楽には劣等意識さえ持っている私がそんな夢を見たのだ。

 フロイトは夢判断をしたのだろうが、私の夢判断はどう出るのだろうか。春眠暁を覚えずという言葉もあるが、春の夢を語ってみた。

※『聖パウロの生涯とその書簡』(デーヴィツド・スミス著日高善一訳1927年刊行)

を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。(旧約聖書 イザヤ書55章6節)

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